無為の誘い
杠葉の屋敷に戻っても、柘榴の心は乱れたままだった。揺らめく池に映る月を眺めながら、柘榴は己が何者か問いただす。
「私は識さまの手足。あの方に命じられた通りに動いてこそ、私ではないか」
頭では分かっているのに、この手はあの巫女を殺したがっている。識の手足である自分も、識の命令に背くことがある、ということなのか。
「そんなわけがない! 私は……識さまの一部なのだぞ」
柘榴は人の子どもとして、人に育てられた。川に流された捨て子と勘違いされ、人に救われてしまったのである。しかし、妖怪だと知られてからは、石を投げられ、存在を否定され続けた。生きる意味などない。村を出て、そのまま朽ちつつあった自分を救ってくれたのが識である。
――ならば、お前は私の手足となれ。
生きる意味を与えてくれた。彼の手足である間は、自分は生きていられる。生きることを許されるのだ。
「まだ不機嫌なままか」
一人のつもりが、声があり、柘榴の心臓が跳ねる。
「覗き見とは無礼だぞ、無為」
乱れた心まで覗かれたようで、柘榴の苛立ちはさらに刺激された。しかし、声をかけてきた妖怪……無為は微笑みを浮かべると、彼女の横に立つ。
「偶然通りかかっただけだ。しかし……その様子だと、また識に蔑ろにされたのか?」
無為が腰を下ろした。自分は識の横以外では、心を許すつもりはない。そう体を硬くする柘榴だが、無為はくつろいだ調子で言うのだった。
「そう睨むな。俺はお前の味方だぞ。お前の考えていることを知りたいだけだ」
それを聞いて、柘榴は考えてしまう。識は自分について、何かを知ろうとしてくれただろうか、と。
「どうしても……殺したい人間がいる」
喋るつもりはなかったのに、口が勝手に動いていた。自分でも驚くが、既に出てしまったものを引っ込めるわけがない。得意げな笑みを浮かべる無為が憎たらしかったが、同時にこの男が自分にどんな言葉をかけるのか、と期待していた。
「なぜ殺さない?」
「識さまが女を殺すな、と」
「なるほど」
無為は顎をさする。まるで、何もかも察したと言わんばかりに。
「噂は本当だったのかもしれないな」
「噂?」
「識は半妖だから面で顔を隠している、という噂だ。それが本当なら、人の女に惚れるのも分かる」
柘榴はその噂は以前から知っていた。これまでは、識を半妖と呼ぶものに怒りを抱いていたが、今は違う感情が浮かんでいる。識が完璧な存在として妖怪たちの上に立つためには、半妖など裏で笑われるようなことはあってはならない。柘榴のそんな想いは、呟きとなって漏れた。
「やはり、あの女は殺すべきだ」
「良いじゃないか。手伝うぞ」
当然のように協力を申し出る無為に、柘榴は疑いを持つ。
「お前、何が目的だ? 私と識さまを引き離したいのであれば、その女を生かしておきたいと思うものではないのか?」
「ほう。つまり、俺がお前に惚れている、と分かっているのだな?」
「な、なにを……!!」
柘榴は動揺しながらも、無為の狙いを冷静に考えようとする。
「そうか。私が識さまに背くよう、けしかけるつもりか!」
必死に答えを探す柘榴だが、無為はそれを心の底から笑い飛ばすのだった。
「笑うな! 識さまに聞かれたらどうする……」
笑いを落ち着かせた後、無為は柘榴に慈愛に溢れた視線を浴びせた。
「お前と識の関係など……俺にとってはどうでもいい」
「どういう、意味だ?」
「単にお前の暗い顔を見たくないのだ。お前が人間の女一人を殺すだけで笑えると言うのなら、百でも二百でも殺そう。惚れた女には幸せであってほしい。そう考えることが、おかしいことか?」
目を逸らし、自分の爪先を眺めて黙り込む柘榴。そんな彼女に、無為は続けて言った。
「それで、どうしたい? 俺ならお前に力を貸せる」
「分からん……。私はどうすればいいのだ?」
「そうだなぁ」
無為は再び顎をさすりながら考えたようだが、すぐに結論が出たらしい。
「分からぬのなら、まずは思うがままに動いてみてはどうだ?」
「……先のことを考えぬなど、阿保のすることだ」
「考えて考えて、何も分からぬまま、すべてを失う方が阿保だろう。どうせ分からぬのなら、思うままに動いた方が気分が良い」
柘榴は無為の慈しみを受けながら考える。考えるが、やはり分からない。識の言葉に背くべきではない。それなのに、この手はあの女を八つ裂きにすることだけを求めている。分からない。分からない。頭と体が別々になってしまったようだ。でも、このままでは識は、あの巫女によって、身を落とす気がしてならなかった。
「無為、本当に……手を貸してくれるのか?」
無為は笑みを浮かべたまま頷いた。
「もちろんだ」
識は暗い部屋の中で考えていた。先程の斬り合いの中、識は迷っていた。楓という巫女。敵ならば殺すべきだ。そう判断する自分もいたのである。しかし、彼女と目が合った瞬間、識は見た。
――いやだ、助けて!
幼かったころの楓と思われる少女が、野盗に追われる姿を。今とは違い、汚い着物に身をまとい、雨の中を走り回る。
「私と同じか……」
識も幼い頃、追っ手に何度も殺されかけた。もしかしたら、楓の方はそんな自分の姿を見たのではないか。何となくそう思った。だとしたら、彼女の言っていたことは、本当なのかもしれない。
――私だけが識を理解できる。
それは、楓の言葉だったか。いや、柊の言葉だったはず。識は額を抑える。眠れそうになかった。




