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徒花の巫女  作者: 葛西渚
第三章 蝕まれる世界
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旅立

 次目覚めたときは地獄だろう。識はそう覚悟を決めていたが、実際に目を覚ますと、穏やかな川のせせらぎが聞こえた。



「ここは……」



 うっすらと目を開ける識の視界に、ぼんやりとした月の明かりが入り込む。地獄にも月がない限り、自分は生きているようだ、と心の中で呟くと、何やら傍らで騒がしさを感じた。



「識さま!」



 帳の声らしい。彼の顔を確認しようと、識は体を起こそうとするが、痛みによって、それは叶わなかった。



「無理をなさらないでください!」



 帳が識の体を支え、再び横になるよう促す。もう一度月を眺めると、川のせせらぎと相まって、自分が滝から転落したことを思い出す。



「私は……なぜ生きているのだ?」



 境から受けた傷は致命傷だった。さらに、川に流されたとなれば、生きる余地などなかったはず。だが、帳は大きく安堵の息を吐いてから、説明するのだった。



「御神楽衆の手から逃げている途中、偶然にも貴方様を発見したのです。酷い状態でしたが、致命傷と言うほどではなかったので、どうにか処置を行い……数日を経て、今に至ります」


「致命傷ではなかった? そんなはずは……」



 識は自分の傷を説明すると、帳はしばらく考えた後、一つの結論に至ったようだ。



「もしかして……川を流れていたということは、屋敷の裏にある滝から落ちたのではないでしょうか?」


「なぜ分かる?」


「やはり……。あの近くには妖怪の傷を少しばかり早く治す、と母上……いえ、蝕さまが昔話していましたが、あの滝のことだったのでしょう」


「……なるほど。では、私は君の母上に助けられたようだ」



 最後に彼女と会ったのは、自分である。そう伝えたつもりだった。つまりは、蝕を討ったのは自分だと気付いてほしかった。恐らく帳は察しているだろう。だが、何も言わなかった。



「玄天狐党は……どうなった?」


「ご指示いただいたように、別々の方向へ逃げましたが、多くは合流できました。貴方様をお助けした後、樒ヶ里村を離れて、御神楽衆からの追っ手から逃れられたと考えています」


「合流できた、のか」


「はい。どうか皆(みな)の顔を見てやってください」



 あれだけの御神楽衆が攻められ、蝕が死に、瓦解寸前だった玄天狐党が、まだ形を残しているなんて。識は信じられなかったが、帳の助けを借りながら今度こそ体を起こして、彼が指し示す方向を見渡してみると……。



「朔月さま!」


「よくぞ生きておられました」


「玄天狐党はまだ残っておりますぞ!」



 おそらくは三十ほどの妖怪が並び、識の傍で膝を付いていた。そして、彼らの先頭に帳が立つと、同じように膝を付いた。



「朔月さま……。どうか我々をお導きください」


「導く……?」


「そうです。私たちの生きる道を指し示す方は……貴方以外におりませぬ!」



 帳が頭を下げると後ろに並ぶ妖怪たちも、それに倣った。誰もが識を必要としている。少なくとも、彼の万象神覚はそう告げていた。



「私が生き残った理由は……これなのか」



 境に敗れた時点で、いや……楓と出会った時点で、いつ死んでもおかしくなかったはず。それが、一つの戦(いくさ)が終わるまで生き延びた。だとしたら、見えない何かに生かされたと考えた方が自然だろう。そして、生かされた理由というものが、今目の前にいる彼らだとしたら……。



「この死にぞこないに、鞭を打つようなことを言うものだな」



 そう言って識は微笑みを浮かべるが、体に痛みが走って、起きてはいられなかった。再び横になるが、妖怪たちは旅の準備か、何やら忙しなさそうに働き始める。だが、帳だけは識の横から動かなかった。月と一緒に未来ある若者を眺めながら、識は考える。これからの妖怪は、どうあるべきなのか、と。



「私はまだ……妖怪を終わらせたくはない」


「何か?」



 識の呟きに帳は反応したが、聞こえなかったらしい。耳を寄せてきたが、識は同じ言葉を繰り返しはしなかった。



「おそらく、蝕さまの言う通りだ。妖怪は消えゆく存在なのだろう」



 何か希望のある話を聞けると思っていたのだろう。帳は識から離れると眉を寄せた。



「だが、形を変えて生きた証……その欠片のようなものなら、残せるかもしれない」


「我々は虐げられるべき存在、ということなのですか?」


「時代は変わっていくのだろう。私にも、それしか分からないよ」



 次の日の朝、識は動き出した。御神楽衆の目の届かない土地を目指し、少しでも移動しなければならなかったのだ。途中、山の頂上から樒ヶ里村が見下ろせる場所があった。



「私に……できるのだろうか」



 復讐のために生きていた自分が、死者に囚われて生きてきた自分が、生きる価値を見出すような道を歩くことができるのだろうか。識ならできる。そう言ってくれる女の声はない。もう聞こえなかった。


 だが、樒ヶ里村の方から温かい風が吹いて、識を優しく撫でた。それは、これからの彼が行く道を肯定してくれるかのようだった。



「それが分かるような便利なものは、どこにもいない……か」



 識は苦笑いを浮かべてから、自分に言い聞かせる。



「そうだな。まずは生きて……続けることだろう。行けるところまで行ってみるさ」



 樒ヶ里村を見下ろしながら、識は覚悟を決める。



「朔月さま、何をされているのですか? 行きましょう!」



 帳の声に振り返り、識は頷く。もう過去を見ることはやめて、新しい時代を作るために生きてみよう。


 識はそんな想いを固め、彼女と出会い、再会した樒ヶ里村に別れを告げるのだった。

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