帰所
境は全身を激痛に襲われながら、どうにか山を下りようとした。ほとんど体は動かず、剣士たちが自分を見つけてくれれば、と期待したが、そんな都合の良い助けは現れなかった。
「でも……山さえ下りれば」
そう、山さえ下りれば必ず誰かが発見してくれるだろう。
「うわっ!?」
しかし、彼は足を滑らせて崖から落ちてしまう。その衝撃で足の骨を痛めてしまったのだろうか。とても一人では立ち上がれそうになかった。
「……死ぬのか」
どうやら、窪んだ地形に落ちてしまったらしい。
境がこんな場所にいるなど、誰も気付くことはないだろう。
「まぁ、仕方ねえよな」
笑みを零す。絶望的な状況と言えたが、嘆くほどのことではない。なぜなら……。
「これで楓に会えるってもんだ」
境にしてみれば、何よりも求めていた最後を迎えるようなものなのだから。
「さてと……やるか」
目を閉じて、気持ちを落ち着かせる。集中して、万象神覚の向こう側へ踏み出そうとした。境の魂は肉体を離れ、地の果て、海の果て、空の果てまで過ぎ去る。そして、目の前に現れたのは、空を切り取ったような巨大な穴だった。
(この先に、楓が……!!)
境はゆっくりと穴の中へ入る。少しずつ魂が変化していくような気がした。たぶん、魂がこちら側に順応を始めているのかもしれない。
――境。
誰かが呼んでくれた。振り返って、顔を確認しようと思ったが、もちろん体がないため、そんなことはできない。でも、声の主が誰かは分かる。
――楓。
二人の魂が重なり合うと、境は楓の手を取ったような感覚があった。
「良かった。会えたんだな」
「うん、迎えにきたよ」
楓が微笑みを浮かべると、その腕で境を優しく包み込んだ。
「ごめんね、たくさん傷付けてしまったよね」
「謝る必要はねえよ。こうして会えたんだ」
「境……。大好きだよ」
二人の魂が混じり合う。それは肉体が得られる快楽を遥かに上回る男女のまぐわいだった。二人は一つになって、ただひたすらに求め合う。
自分を他人に受け入れられる喜び。他人を自分のものとする喜び。そんなものは瞬時に通過して、より深い愛の結びつきが、快楽となって昇華される。
だが、それは一瞬の輝きのように消えるものではなく、永遠のように繰り返し続いた。もし、肉体がある頃ならば一生分の快楽と幸福を味わうようなものだ。
「お前に出会えてよかった」
「私も……」
「これからずっと一緒にいられるんだな」
境にしてみれば、それは事実の確認でしかなかった。だが、楓は何も言わない。
「もしかして……」
境は悟る。こちら側に踏み込んだからこそ、楓の考えが一瞬で理解できてしまった。
「待ってくれ。俺はもう離れたくない……!!」
「私もそうだよ。でもね……」
一つだったはずの二人の魂が別れていく。楓が離れる感覚に境は震えながら叫んだ。
「楓!」
だが、楓は優しく境を突き放した。
「でもね、境の肉体はまだ生きている」
「だから……だから何だって言うんだよ! 体が生きていても、未練なんかない。俺はお前といたいだけなんだ!!」
必死だった。境にしてみれば、楓は人生の答えだった。この女と一緒にいられたら、すべてが報われ、幸せを実感できるという、確信があったのだ。だから、境の人生は彼女を求めることにある。出会ってから数日でしかなかったが、万象神覚によって時間を超え、経験を超えて、理解したのだから間違いない。それなのに、また離れなければならないなんて。
「分かっているよ」
楓は優しく微笑んで言う。
「でもね、もとの世界でしか感じられない幸せもある。境に、それを知ってほしいんだ」
「お前のいないところに幸せなんて……!!」
「境が思っている以上に、幸せはどこにでもあるから」
「そんなの言葉で、納得できるわけないだろう!!」
口では抵抗するが、境は分かっている。楓が純粋に自分の幸せを願ってくれているのだ、ということも。
「でも、俺がいない間は……お前は一人じゃないか!!」
「大丈夫だよ。こちら側は時間なんてものはない。境の一生もほんの一瞬みたいなものなんだから。少しだけ待つだけなの。だから……」
「嫌だ。俺は一瞬だって……お前を独りにしたくはない!」
「待ってる。今度はちゃんと……境だけを待っているから!」
境は手を伸ばす。しかし、楓は遥か遠くへ消えてしまった。気付けば、あの大穴の外へ放り出されているではないか。
「楓!!」
穴の向こうで、楓が微笑んでいる。それなのに、どれだけ叫んでも声は届かないみたいだった。
空の果てから海の果て。
海の果てから地の果て。
地の果てから、境はあの村の傍にある小さな山に戻っていた。
どれだけの時間が経過したのだろう。時代が変わるような長い間だったように感じるし、瞬きするような短い間だった気もする。それでも、日の光を見る限り、あの窪みに落ちてから、それほど時間は経っていないようだった。
(生きている、か)
その実感は喜びとは言えなかった。安堵に近いが、それも違う。何となく……まだ続くという諦めのようなものもあった。
「境」
だが、すぐ傍で自分の名前を呼ぶ声があった。一度体を抜けてしまった影響か、五感がおかしくなっているが、少しずつ正常に戻り、境は目を動かす。すると、自分の腹の上に顔をうずめ、泣く女の姿があった。
「境、行かないで……お願いだから、どこにも」
紬だった。どうやら、境が目覚めたことに気付かず、ひたすらに泣いているようだ。
「……紬」
どうにか声を出すと、紬は弾かれるように声を上げた。そして、境と目を合わせて、しばらく止まった後、その表情を歪めてから、再び激しく涙を流し出す。そんな紬を見て、境は気の抜けたように微笑むと、彼女の頭に手の平を乗せた。
「いつも……ありがとうな」
その言葉に、紬の体が止まった。彼女の思考に何が過ったのか、境は分かってしまう。それでも……彼女の髪を優しく撫でてから、その頬に伝う涙を指先で拭った。
「お前のおかげで、俺は今日もこうして生きている。……今回ばかりは、身に染みたぜ」
それから、二人は山を下りて、御神楽衆に保護された。
玄天狐党は全滅したとして、妖怪狩りも終了。樒ヶ里村から依頼された仕事は完遂となった。




