絆
識は勝ちを確信していた。境の反応は速いが、識の剣技についていけない。いや、自分の万象神覚に体がついていけない。だから、あらゆる攻防で最終的には識が上回る。何度、刃が交錯したか覚えていないが、境の体は傷だらけだった。
「……まだだ! まだ負けてねえ!」
そう言って、後退する境の足は覚束なく、刀を構え直しても、体に芯が通っていない。あれでは、強い一撃を放つことが難しく、識としても踏み込むことは怖くなかった。
「勝ったつもりでいるなよ、狐野郎!」
それでも、勝気な言葉を吐いて、攻めの姿勢を見せてくる。そんな境に対し、識はもちろん油断などしていなかった。
(この男なら、最後の一瞬に状況をひっくり返すこともあるだろう。あくまで、慎重に……いや、確実に仕留めなければならない)
刀を振るうように見せかけ、足を払って境を倒し、そこに斬撃を落とす。だが、境は虫のように地を這って難を逃れると、木にすがるように手をかけて、どうにか立ち上がった。
「……そろそろ決着を付けるとしようぜ」
敵意に溢れた笑みを浮かべる境だが、同時に口元から血が零れる。恐らくは、立っているだけで精一杯なのだろう。それでも、境は深い呼吸を何度か繰り返してから、ゆっくりと刀を構えた。
(なるほど。最後の一振り、というわけか)
識の前で刀を構える境は、体に芯を取り戻していた。これまでは、体中の傷によって構えを作れなかったはずが、痛みを忘れて姿勢を正しているようだ。
(このまま、やつの集中力が切れる瞬間まで、待つこともできる)
そうすれば、境の構えは崩れ、血も流れ切って倒れるかもしれない。
(だが、それは男として、何かに敗北したと言える。私は……この男だけには負けない。負けられない!)
すべてを上回ってみせる。識は覚悟を決め、同じように構えた。少しずつ距離を詰め、これまでの怒り、悲しみ、絶望を振り切るための一撃に備える。
(一撃に賭ければ、技術の差も関係なく、先に当てさえすれば勝機があると考えているのだろうが、そうはいかない。単純な力と速さの戦いであるからこそ、私が勝つ)
識は息を止める。いや、お互いが集中のために、呼吸を忘れただろう。
そして、その瞬間が来る。
二人が同時に地を蹴り、煌めきが交差した。
すれ違うように駆け抜け、背中を向けあって停止する。決着の行方を知り、永遠のような時間が一瞬で流れ……境の体が崩れた。それを確認するように、識は振り返るが、腹部に触れると手にぬるりとした感触が。
「……負けた、か」
黒く染まった手を見て、その傷がどれだけ深いのか、識は理解する。境も御神渡で体を支えながら、どうにか振り返るが、最後の一太刀で彼を仕留める力は残っていないらしい。
「最初から、そういうつもりだったのか?」
識の問いかけに、境は鼻を鳴らす。
「何の話だよ」
「私を油断させるため、あえて追いつめられたように見せていたのだろう。そして……」
識は息を整えてから言い直す。
「そして、彼女を待っていた」
自身の敗因を分析する識に、境は血の匂いを好みそうな笑みを見せた。識は落ち着いた声で続ける。
「最後の一太刀による勝負に誘い込み……凪の神楽で私の動きを鈍らせた。違和感によって、私の太刀は精度を失い、わずかな差で貴様が上回る。見事な連携だと認めずにはいられないな」
二人の攻撃が重なる瞬間、識は感じたのだ。凪の神楽の影響を。
「紬はもう戦える状態ではない、と決めつけた私の誤算と言うべきだろう。まさか、これだけ周到な戦術まで用意できるほど、気力を残していたとは」
「……別に話し合いなんてしてねえよ」
「……なに?」
そんなわけがない。あの攻撃の時期は、準備がなければ、合わせられるものではない。それくらい完璧だった。
「では、万象神覚を使って呼び寄せたのか?」
今の境ならできるはず。万象神覚を使わぬ人間に対しても、一方的に呼びかけることも。しかし、境はくだらないと言わんばかりに笑うのだった。
「あの大雑把な女が、万象神覚を通した声を聴けるわけがねえだろ」
「ならば、どうやって……?」
「別に……。ただ、俺たちはそういうものなんだよ」
意味が分からなかった。識は黙って、境の言葉を待つ。
「討者は巫女を守る。巫女は討者を守る。そういうものなんだ。だから、俺があぶねえときは、あいつは絶対に助けにくる。それがいつになるか、分かっちゃいなかったが……俺は最後の一太刀に賭ける直前、あいつを信じたってだけだ。万象神覚なんて……知るかよ」
識には信じられなかった。だが、この黒い血はそれが事実だと証明している。
この村にやってきてから……いや、柊と出会ってから、万象神覚という奇跡がなければ、本当の意味で他人に身を委ねるなど、愚かなことだと思い続けていた。
だから、識は面で顔を隠し、偽りの自分を作って、危険から身を守ってきたのだが……。
境は信じた、という。
いつ裏切るかも分からない、自分のことを信じてくれるかも分からない、ただの他人を信じた。万象神覚を持ちながら、それを通すことなく、ただの経験と時間の積み重ねによる、相手との信頼関係を信じたというのだ。
「これが人間の強さ……ということだろうか」
呟きを漏らした直後、識は大量の血を吐き出す。どうやら、この身は持たないようだ。
「貴様の勝ちだ」
敗北を認める識だったが、境は勝ち誇るわけでもなく、ただ少しだけ目を細める。そこに、憎しみも残されていないように見えた。
「この傷では長くない。それに、私には楓の声も聞こえなかった。すべてが貴様に傾いた、ということなのだろう」
「……そうかよ」
「だが、私には一つやり残したことがある。この命……見逃してはくれないか」
境は識の過去を知った。それだけではない。遂げなければならない復讐のことも知っている。だが、それだけで境が識を許すわけがない。取り返しのつかない傷を負わされたのだから。
「好きにしやがれ」
短い答えに、識は小さく頭を下げた。境にとって、この戦いはもう終わったのであろう。識も目を閉じて、体を休めたかった。だが、識の戦いは終わっていない。最後の一仕事が残っている。識は境の傍らを通り過ぎ、蝕が待つ社の方へ向かった。
「あと少しですべてが終わる。持ってくれよ……!!」
毅然とした足取りで進む識だが、指先は痺れ、視界は歪む。一歩進むたびに、その命がすり減るような痛みも感じた。
だが、それでも行かなければならない。この戦いを終わらせなければならないのだ。




