相承
境は楓の墓をただ見つめていた。ここに彼女の魂がないことは知っている。それでも、傍にいるように感じられた。
――また戦いが始まるよ。
また楓の声が聞こえる。
「そうか。準備しないとな」
そう返事はするものの、戦うための気持ちが整わないままだ。それでも、孔雀威が目を覚まさない今、自分が剣士たちをまとめて、妖怪狩りを再開しなければならない。境は陰鬱な想いを引きずるようにして、紬のところへ向かった。
(生きているよな?)
紬が休んでいる部屋は襖によって塞がれていた。村の女が付き添っているはずだが、気配は感じられない。
(また自分で手首を切るなんてことは……)
相馬の正体が判明したあと、紬は自らの手首に、刃を突き刺した。あれは、ただの自傷ではない。死ぬための行為だった。紬があんなことをするなんて……。
境にとって、彼女は傍で笑っていることが当たり前の存在だった。彼女の笑顔を見るたびに、気楽だ、のんびりしている、と呆れていたが、今はそれが懐かしく思えた。
「うっ……!!」
しかし、紬の顔を思い浮かべると、境は吐き気に襲われた。識に子種を植え付けられた女。そんな思いが過ってしまうと、どうしても激しい嫌悪感に埋め尽くされてしまう。たぶん、彼女に触れることも、傍に立つことも……今は抵抗があった。
(どうして、こんなことに……!!)
当たり前の存在。それがこんな形で失われるなんて、とても受け入れがたい。それでも、境は確認しなければならなかった。込み上げる吐き気を抑え付け、襖をゆっくりと引く。
中央に敷かれた布団の膨らみは、わずかに上下していた。間違いなく、生きている。境は付き添いの女に目を向けるが、彼女は首を横に振るだけだった。
(あの状態で戦えるわけがない。戦わせるなんて……できない)
襖を閉めてから、境は部屋から離れる。少しでも紬から離れなければ、おかしくなりそうだった。
次に境が向かったのは、孔雀威が眠る部屋だった。孔雀威が目を覚ませば、彼女が戦えというのなら、境は何も考えず、立ち向かって行けるはずだ。
しかし、彼女も布団に横になったまま、目を覚ますは様子ない。孔雀威に至っては、呼吸すら怪しく思えるほどだ。
「調子は?」
付き添いの剣士に訊く。彼は医療の知識も豊富であるため、今回の仕事に参加したのだろう。だが、そんな彼も首を横に振る状況らしい。
「手は尽くしましたが……あとは孔雀威さんにどれだけ目を覚まそうとする意思があるのか、といったところです」
「そうか。じゃあ、安心だな」
「そうですね。この方は地獄に落ちたとしても、近くまで旅へ出た程度の調子で帰ってくるでしょうから」
そのあと、剣士は気を使ってくれたのか、部屋を出た。境は孔雀威の寝顔を眺めながら、不安を覚える。先程は仲間の前だったから、平気なふりをしたが、このまま目を覚まさなかったら、という考えが過ってしまう。
「頼むよ、孔雀威さん……。俺は、どうしたらいいんだ?」
いつもそれを決めてくれるのは孔雀威だ。そんな彼女が何も言ってくれなかったら……。思わず、頭を抱え込む境。戦わなければならない。それは分かっている。だが、心は乱れて、御神渡を握る力が出ないのだ。こうなったら、誰でもいい。自分の背中を押してくれ。目を閉じて強く願う境だったが……
さっ、と布がこすれる音がした。ふと、視線を上げる境だったが、孔雀威と目が合った。
「く、孔雀威さん!?」
驚きのあまり、後ろに倒れそうになるが、どうにか両手で体を支える。自分が見たものは、何かの間違いだったのでは。そう思って、もう一度孔雀威の顔を覗き込むが……やはり、彼女は目を開いている。いつもと変わらない感情のない目で、こちらを見ていたのだ。
「……紬が死んだか?」
開口一番はそれだった。
「し、死んじゃいねえよ」
まだ驚きが消えない境だったが、どうにか答えると、真っ直ぐな孔雀威の視線が天井の方へ向けられた。
「そうか……。お前が取り乱したところを見ると、てっきり死んだのかと。良かった」
良かった。孔雀威はそう言うが、境は素直に返事ができなかった。それをどう感じたのだろうか。孔雀威の目が再び境に向けられる。その真っ直ぐな瞳に、境は思わず目を背けるが、孔雀威は逃げることは許さないと言わんばかりに、視線を向け続けた。
「境」
名を呼ばれては、どんなに怖くても、彼女の目を見なければならなかった。空洞のような何もかも飲み込んでしまいそうな瞳が、境を捉える。
「戦いなさい。お前は……何のためにここにいる?」
「そ、それは」
「妖怪を殺すためだ」
境の意見など聞くことなく、孔雀威は断定する。
「お前は妖怪を殺すために、ここにいる。いや、妖怪を殺すために生きているんだ。そう私が育てた。違うか?」
「その通り、です……」
「なら、何を躊躇う?」
それは、誰に頬を打たれるよりも、身が引き締まるような一言だった。
「考えるな。目の前にいる妖怪を斬る。それだけで、お前は誰よりも価値のある存在だと認められるのだから」
分かっている。これまでは、ずっとそう思っていた。それなのに、動けないのだ。孔雀威の言葉があれば、再び戦える。そう信じていただけに、境の中でさらなる戸惑いが生まれた。
境の中に渦巻く葛藤。孔雀威はそれを見透かすように、あの目を向けていた。だが、いつまでも黙る境から視線を外し、天井を眺める彼女は言うのだった。
「そうか。お前も……成長したのだな、境」
孔雀威の口元には笑みがあった。いつもの冷たい笑みと違う。どこか温かな笑みが。
「私の言葉が届かなくなるほど、お前は自分というものを得たのだろう。ならば、お前は自由だ。逃げるも、戦うも、自分で決められる。それは少し寂しいが……誇らしくもある」
孔雀威の見せた優しい表情。それは一瞬だった。再び凍り付いた瞳が境を捉える。
「だからこそ、言おう。境、戦え。戦って、妖怪を斬るのだ」
息を飲む境に、孔雀威は平坦に言う。
「迷うのなら、苦しいのなら……困難な道を行け。その中に、本当の答えがあるはずだ」
「……孔雀威さん」
「お前が何を大切にして、何のために生きるのか……。その中で、自分が見つけた答えに、従うと良いさ。だが、死ぬなよ。絶対に、な」
そう言い残して、孔雀威は瞳を閉じた。小さな呼吸が聞こえるため、生きているようだが、目を覚ますとは思えない、深い眠りのようだった。




