継世
なかなか答えない識に、蝕は言った。
「好きにすると良い。今ここで、私を殺すのも良い。玄天狐党を率いて、御神楽衆に抗うのも良い。お前は好きなように生きろ」
識は傍らに置かれた面を眺めながら、蝕と交わした会話を思い返す。妖怪は、このまま滅びゆく存在。だとしたら、自分は……。
「半分ではありますが、自分も妖怪。そうでありながら、その出自や使命を知らなかったことは……とても恥ずかしく思いました」
深々と頭を下げた識に、蝕は何も言わない。待っていた言葉とは違ったのだろうか。識は顔を上げ、その意思を伝えた。
「しかし、蝕さまの物の見方は、あまりに長い時間を基準にしているように思えます。私たちのような今を生きるものにとっては……明日の生き死や目の前の幸福のことしか考えられません。例え将来滅びるとしても、必死に今を生きるしかないのです」
「……そのために戦う、と?」
それには答えられなかった。多くを救うため、文化の寿命を伸ばすため、自分一人に何ができるのか。
「戦ったところで、何も救えないかもしれません。しかし、志を少し先の未来に手渡すことくらいは……できるかもしれない、と考えました」
「……なるほど。確かに、お前がその少し先の未来に立っているのかもしれない」
それを聞いた識は、面を手に取って立ち上がる。
「私を殺さないのか……?」
「まだ、やり残したことがあります」
境という敵を斬る。その宿命がまだ残っている。
「ゆえにお願いがあります」
「聞こう」
「蝕さまに死なれては、玄天狐党は総崩れになる。私の戦いが終わるまで、生きて、ここを動かないでいただきたい」
そのあとは、必ず殺す。そんな識の宣言に蝕は少しだけ黙ったが、すぐに受け入れたようだった。
「分かった。お前が戻るまで……ここで待とう」
それを聞いて納得した識は、部屋を出ようと背を向ける。が、蝕は引き止めた。
「そうだ、朔月。そこに刀が一振りあるだろう」
識が横を見ると、蝕が言う通り、一本の刀が飾られていた。
「蒼月さまが使っていたものだ。お前が使うと良い」
手に取ると、不思議と馴染むような感覚があった。親の顔などほとんど覚えてはいないのに。
「それから……」
刀を手にした識に、蝕は言う。
「私がいつ死のうが何も変わらないよ。玄天狐党は既にお前のものだ。あの方の息子である……お前の、な」
識はもう一度蝕の方を見てみるが、彼女は背中をこちらに向けたままだ。やはり、今斬るべきだろうか。いや、そうしてしまったら……識の中で何かが一つ終わってしまう。そんな状態では、境に打ち勝つことはできない気がした。
いや、それだけでは足りない。捨てた過去も利用する。そんな覚悟がなければ……境には勝てないだろう。識は手にしていた面を、足元に落とすと、それを力強く踏み付けた。粉々になった面の残し、識は蝕の部屋を後にした。
「……面は、どうされたのです?」
部屋を出た識を見て、帳は意外に思ったようだ。だが、識はそれを説明しない。
「御神楽衆を叩く。後方の守りは……任せられるか?」
識の心変わりをどう思っただろうか。帳はその意思を受け取るまで、少しだけ時間を要したが、最後には力強く頷いた。識が前を歩き、二人は社から出た。外で待っていた、玄天狐党の妖怪たちが一斉に視線を向ける。ざわめきに空気が揺れるが、識は静かな瞳で彼らを見渡した。
「蒼月さまだ……」
そんな呟きがどこからか聞こえてくる。古くから玄天狐党に属する妖怪たちにとっては、その顔を見れば、すぐに理解したのだろう。識こそが、蒼月の息子である、と。それは、識のこれまでの行動がどういうものだったのか、彼らの中で結びつくような事実だったのかもしれない。
「玄天狐党の兵たちよ」
識は呼びかける。
「私は今、蝕さまから妖怪の未来が滅びゆくものだと聞かされた。確かに、長い歴史を持つ我々は、かつてに比べると、その生息地が限られている。それが衰退ではないと否定することは難しい。私もそう思う」
どれだけの妖怪が、蝕から話を聞かされているのだろうか。暗い未来を聞かされても、彼らは食い入るような目で識を見ていた。
「だが、私たちは今この瞬間を生きている。意思を持ち、誇りを持ち、明日に希望を持って生きているのだ。滅びる将来が見えているからと言って、座して死を待つことが正しいのだろうか」
少しずつ識を見る妖怪たちの熱が強くなっていく。それに答えるが如く、識は握った拳を彼らに見せた。
「このままでは、妖怪は人間によって滅ぼされる。だが、私は君たちが歩んできた道、これから歩む道が閉ざされるなど、決して認めたくはない。君たちが失ったもの。掴んできたもの。それが何もなかったかのように、否定されるなど……許されるわけがないと考えるからだ」
識の心には、柊と過ごした日々、楓と過ごした日々が交互に浮かんだ。苦しかった日々も、耐えがたい痛みも、彼女たちが救ってくれたのだ。それが、どれだけ尊いことだったのか。
「しかし、御神楽衆は日々を噛み締めるように生きてきた我々を踏み躙るため、今もこの山を攻め入ろうと準備を進めている。ただ妖怪だからと言う理由で、何もかも否定しようとしているのだ」
かつて父が手にしていたという刀を掲げ、識は言う。
「だから、私は父、蒼月が使っていたこの一振りと共に、玄天狐党として戦う。たった一人だとしても、玄天狐党の誇りを守るためなら、私は人間たちを相手に戦ってみせるだろう」
妖怪たちが声を上げ始める。自分も戦う。そんな訴えが殆どだった。
「数は圧倒的に劣る状況だということは分かっている。それでも、私と共に立ち上がってくれるものがいるなら……今ここで、拳を突き上げ、その想いを聞かせてほしい。そして、その声を麓にいる御神楽衆に届けるのだ!」
その場にいる、すべての妖怪が拳を突き上げ、想いのまま叫んだ。それは地を揺らし、空気を震わせる。識自身も、その熱を波のように感じた。識は小さく頷いた後、帳を見た。彼は忠誠を誓うように片膝を付き、識の言葉を待っている。
「攻めが得意なものと、守りが得意なものに分けてくれ。そして、攻めるものは私と一緒に山を降りる。後は君に任せた」
「承知しました」
帳が社から降りて、妖怪たちに指示を出すが、彼らはよく耳を傾け、強い気概を感じられた。自分という存在が、これほど影響を与えるとは。
(……私は境を斬りたいだけだというのに)
個人的な感情に振り回されているだけだと、誰も気付いていない。そう思うと、玄天狐党の妖怪たちが憐れで、滑稽で仕方なかった。
――誰だって、そんなものだよ。
どこから、そんな声が聞こえたが気がした。しかし、あまりに微かな響きだったため、自分の幻聴も疑うほどのものでしかない。
もし、本当に聞こえたとしても、楓のものか、柊のものだったのか。それも分からなかった。




