遺言
天涯孤独の身だと思われていた自分に兄弟が……。もちろん、言葉は失われ、思考も止まってしまった。この事実をどう受け止めるべきなのか、少しも分からない。
そんな識を蝕は見ていなかった。ただ、過去の想い出に溺れるが如く、甘く溶けるような表情で語り続ける。
「あの方を殺す前に、必死にせがんだのだよ。駄々をこねる子供のように、腕にしがみついて、抱いてくれと何度も繰り返した。……ふふっ、お前は柘榴を抱いてやったか?」
「彼が蒼月の息子であることは……妖怪たちは知っているのですか?」
話を逸らす識だったが、蝕は素直に答える。
「私の息子だということは周知だ。だが、蒼月さまの息子だとは話していない。だって、惨めじゃないか。月蝕の三姉妹の長姉である私が、人間で言うところの妾みたいに扱われていたなんて」
恥じらっているのだろうか。蝕は苦々しい笑みを浮かべるが、そのあとの話は、さらに明け透けなものだった。
「蒼月さまに抱かれたとき、私は満たされていた。あれは、子を残すための交配ではなく、私の愛されたいという気持ちから生まれた、欲情を満たすための行為だったのだろうな」
蝕は立ち上がると、識に背を向け、しばらく動きを止めた。何を考えているのか、目を見張る識だったが、やがて彼女は動き出し、またも縁側に座るのだった。
「帳が生まれてから……よく分かったよ。妖怪は他者を愛すると弱くなるのだ、と」
蝕の声から感情が失われたようだったが、その表情は庭先に向けられ、実際のところは分からない。
「私自身、蒼月さまを愛していると自覚してしまってから、少しずつ弱くなった。あの方が死んでからは、帳が可愛くて仕方なくてね。同時に、さらに弱る自分が嫌になったものだ」
彼女の語る感覚は識には理解できない。それは自分が半妖だからなのだろうか。
「妖怪とは……もともと強い個体だった。それゆえに強く、それゆえに気高く、高尚な存在で、孤独など恐れはしなかったのだ。もちろん、子を残すために交配は行うが、それは愛する気持ちが原動力ではない。ただの本能でしかなかった。それが、少しずつ変わっていった」
蒼月もそうだったのだろうか。
「蒼月さまも、お前の母親に出会ってから、日に日に弱くなった。気付かなかったが……私も同じだ。他者を愛するとね、そればかり考えてしまって、本来の存在意義を忘れてしまうのだよ」
妖怪の存在意義。識はそんなものは知らなかった。
「妖怪とはもともと原型がある。動物だったり、その辺りにある岩だったり、そういう原型が神秘を得て妖怪となるのだ。ちなみに、私たち月蝕の三姉妹は、もともと植物を原型に持つ。おそらく、仄はそれを知らない。翳すら、ぼんやりとしか覚えていなかっただろう。それくらい、原型に対する意識は薄れているのだ」
蝕は淡々と語る。
「原型となる種を発展させるため、妖怪は動くものだったが、ここ数百年で他者を愛することを知ってしまい、その存在意義すら忘れつつある。 いや、ここ百年で生まれた妖怪たちは、そんなことすら知らないのかもしれない。蒼月さまを含め、玄天狐党の多くは狐が原型だ。だから、この事態を由々しく思った蒼月さまは狐の妖怪がどうあるべきか、常に考えていたのだが……あの方自身が他者を愛してしまった」
だから、蒼月は死んだ。殺されるきっかけを作ってしまった。
「そして、私自身も弱くなっていった。あの方が人間の女を愛すれば愛するほど、私も一緒にもつれるように、あの人を愛して、弱くなる。信じられない話かもしれないが……」
黙っている識が、疑っていると感じたのか、蝕はこんな話まで持ち出した。
「仄などが良い例だ。あいつは愛を貪ることにしか興味がない。私たちの妹でありながら、妖怪として力を振るうことすら知らない、弱い存在だったよ。逆に翳は妖怪そのものだった。愛を知らず、ただ力を求める妖怪そのものだったが……それが、なぜ負けたのだろうな」
蝕は笑う。
「いや、簡単な話だ。あいつは私によく似た女だったからな。男の趣味も似ていたのだろう。蒼月さまに対して抱いていた、小さな憧れが、お前を見て膨らんでしまったのかもしれないな」
つまり、自分が現れたから、翳は弱くなって命を落とした……。そう言いたいのだろうが。否定したい気持ちもあるが、翳の自分に対する態度は、確かに綻びと言えるような、一点の弱味だったのかもしれない。識自身が、それに付け込んだのだから。
「ついこの前も話したな。翳が死んだとき、私は妖怪の未来は潰えた、と。これからも、妖怪は誰かを愛する。きっと、お前のように混血が増えて、徐々に血が薄まるのだろう。だとしたら、妖怪だ人間だと言って騒ぐのも馬鹿馬鹿しい。消えゆくものを見守る。それだけで良いとは思わないか?」
蝕は小さく溜め息を吐いた。
「久しぶりに長々と喋ったせいか……酷く疲れてしまった」
そう言って笑う彼女の声には、確かに力がなかった。
「私の昔話は終わりだ」
庭先に向けられた蝕の視線がこちらに向けられる。すべてを諦めたような微笑みを浮かべながら、彼女は識に問いかけるのだった。
「さて……朔月よ。お前はどうしたいのだ?」




