血縁
真っ向から、その名前を呼ばれたとき、識は幼いころの自分に戻る。この女の前では、目につかぬよう大人しくしていよう、と振る舞っていた自分に。そして、何か言われることがあれば、叱られる前に従った方が良い、と思っていたように。
「面を取れ、と言ったのだよ」
識は膝の上で震える手を、ぐっと握り潰してから、面に触れた。本当に取っていいのだろうか。この女の前で。だが、そんな迷いは意味をなさない。正体を知られた時点で……。
「お気付きだったのですね。いつからでしょうか?」
面を取って見せると、蝕の表情はあの枯れた草木のようなものに戻っていた。
「いつも何も……最初からだ」
その最初がいつを指すのか、識には分からない。だが、蝕は大きな仕事を終えたかのように、腹の底から息を吐いた。
「お前は父親にそっくりだよ。私も所詮は女だ。愛した男の気配は、今だって忘れられない」
愛した男。それは、どういうことだ。想像もしなかった事実に、識の表情が強張るが、蝕はそんな彼を笑った。
「気付いてなかったのか? 少し考えれば……分かるだろう」
当然だ、と言わんばかりの蝕だが、それでも理解に苦しむ識に、彼女は言うのだった。
「ならば、なぜ殺したのか……と疑問に思うか? ふふっ、簡単なことだ。愛していたから殺した。それだけだよ」
黙る識に、蝕は意外な質問を投げかける。
「お前、柘榴とか言う妖怪を連れていたそうだな」
「……どうしてそれを?」
「調べさせた。朔月が私の前に現れたのだ。それくらいはする」
その柘榴がどうしたと言うのか。識は自ら質問するつもりはなかったが、蝕はその意図を話す。
「柘榴はお前に付き従う、忠実な女だったらしいじゃないか。でも、その女を殺したのは、お前だ。違うか?」
「……だとしたら、それがこの話に関係があるのですか?」
慎重に答える識だったが、蝕は驚いたらしく、少しだけ目を見開いた後、声を上げて笑った。
「憐れなやつだな、柘榴とかいう女も」
耐え忍ぶように、黙る識だったが、蝕は笑いを落ち着かせてから、話を続ける。
「柘榴が死んだ理由は、お前が連れていたあの巫女を殺そうとしたからだろう?」
識が黙って肯定すると、蝕は耐えられないと言った調子に、またもくつくつと笑い声をあげた。
「私も柘榴と同じだったのだ。耐えられなくなって、お前の母親を殺そうとして、あの方に殺されかけた。だが、私は殺されるわけにはいかなかったのだ。……この話は、お前の人生が変わったきっかけと言えるだろう。聞いてくれるか?」
「……私の理性が持つか、分かりません。それでも、よろしければ」
その答えに満足したのか、蝕は穏やかだが、冷たい笑みを口元に浮かべた。
「あの方……蒼月さまは高潔な妖怪だった。人間が我々を恐れなくなってから、どのように生きるべきか道を失った私たちを、蒼月さまは常に導いてくれたのだ。誰もが蒼月さまに従い、憧れ、頼っていた。古くから玄天狐党に属するものたちは、いまだにそう思っていただろう。それなのに……!!」
遠い昔話を語っていたはずの蝕が、一瞬で瞳の中に燃え盛るような炎を宿す。
「蒼月さまは人間の女に溺れた。私は何度も聞いたよ。私たちは妖怪だ。人間ごときに心を奪われてはならないはず。なのに、なぜ……と」
そのときの怒りが、今目の前にいる識に向けられているようだった。父によく似た顔であれば、尚更なのだろう。
「蒼月さまは言ったよ。あの女だけが自分を理解してくれる。自分の痛みを癒してくれる唯一の存在だ、と」
くだらない。そう言うように、蝕は吐き捨てた。
「そんなわけがない。蒼月さまの高潔な心を理解していたのは、私たち妖怪だ。いつもあの方を支え、玄天狐党の礎になった我々なのだ。そして、誰よりも傍で仕えていたのは、この私のはず。それが……どうして人間の女などに!!」
それが怒りの頂点だったのか、蝕の覇気は急激にしぼみ、疲れ果てた老婆のような、萎びた姿に戻った。
「女は……万象神覚とかいう得体の知れない技を使って、蒼月さまの心に入り込んだそうだ。蒼月さまが一人で秘めていた想いも、あの女は解き明かして、あの方が求める心地のいい加減で、愛撫し、癒したのだろう」
蝕は自虐的な笑みを浮かべる。
「私がどんなに体を使っても、できないことを……あの女はいとも簡単にやってのけたのだ。そんなことを許せると思うか?」
そう問われて、識の心に浮かぶのは、楓と境の関係だった。楓の手を取ったのは自分だったはず。しかし、あの二人は万象神覚を通じて、自分よりも固い何かで結ばれている。心も体も、自分の方が結びつきは強かったはずなのに。
「だから、私はあの人を殺した。殺しただけでは、気持ちは収まらず、お前の母を骸響という下衆な妖怪に引き渡し、犯すように言った。泣き叫ぶお前の母親を眺めながら飲む酒は、本当に美味かったよ。それまで耐えていた感情が、一気に解放されたのだ。これで終わらせればよかったのかもしれないが、憎い相手はもう一人いる。……朔月、お前だよ」
そう言う蝕だったが、これまでの会話の中でなかった、慈愛を含むような表情を見せた。
「お前が生まれ、その憎らしい顔を見るたび、私は嫉妬に燃えた。こいつさえいなければ、まだ蒼月さまは私に振り向いてくれるのでは、と何度も思ったくらいさ。……私の復讐は、あの二人を殺した時点で終わったと思ったけど、想像してしまった。朔月の顔を見たら、私はどう思うのだろう、って」
蝕は両方の頬に手を添える。
「駄目だった。蒼月さまとあの女の面影を宿す子供など……やはり見ていられない。だが、蒼月さまの側近がお前を逃がしてしまったのだ」
識にとって命の恩人と言える蒼月の側近は、ずっと昔に死んでしまったのだろう。
「それから、私はお前に刺客を送り続けた。だがね、笑ったよ」
蝕が頬に手を添えたまま、前のめりになって顔を近付けてきた。
「お前が人間の女と一緒に旅をしていたのだ。蒼月さまと同じ顔をしたお前が、また人間と一緒にいる! 狂いそうな気分だった。二人とも殺さなければ、と必死になった!!」
柊が殺された理由。それを識は初めて知るのだった。
「そして、お前が死ぬところを見て、思った。何もかもが元に戻る。私は一人の妖怪となって、蒼月さまが残してくれた玄天狐党を……いや、あの方と私が作った憐れな妖怪の集団、大切な想い出を守って行かねば、と。しかしね……」
ゆっくりと、蝕は姿勢を正した後、なぜか自らの腹を撫でた。
「蒼月さまはもう一つ、私に大切なものを残してくれたのだ」
まさか……。識の飲み込んだ言葉に、蝕は頷いてみせる。
「帳だ。あの子は……蒼月さまと私の間に生まれた子供。つまり、お前の異母兄弟というわけだ」




