彼の幸せを願って
楓は言う。
「識は識が思っている以上に純粋な心を持っている。それは大事にした方がいいと思うよ」
信じたわけではない。自分の心は自分が一番分かっているつもりだから。だから、識は揶揄うように返すのだった。
「だとしたら、心を失わずに願いを叶えるためにも、万象神覚の力を借りたいところだな」
「万象神覚の?」
あどけない少女のように首を傾げる楓に、識は思わず笑みを零す。
「そうだ。人の心を読み、未来を視る、強力な万象神覚の力を借りれば負けはしないだろう」
「私のことを言っているんだよね?」
識の意図を理解したのか、楓も笑い出した。
「無理だよ。識は平気で人を斬る。人間の味方の私は、そんな識に手を貸せない」
「だが、無理やり連れ去っても良いのだぞ?」
識の口元に浮かぶ笑みは、これまで楓に見せたものとは違い、妖怪らしいものだった。それでも、楓に怯える様子はない。
「識はそんなことしない。できないよ。優しいからね」
優しい。そんな風に自分を評した人間は、やはり師だけであった。でも、と楓は続ける。
「でも、少しだけなら識の行動を見逃してあげる」
「人の味方なのだろう。なぜ私を助ける?」
再び楓の手が識に触れる。膝の上に置かれた手の平は、妙に温かく感じた。
「だって、識の悲しみを知ってしまったから」
憐れむ目に、識は恐怖を感じる。これまで、細い綱の上を渡るように歩みを進めていた。それが、今この瞬間に転落してしまいそうな不安を覚えたのである。
「……私の心を読まないでほしい」
「もう行くの?」
立ち上がる識に楓は問いかけるが、彼女も自らの護衛が戻ってきたことに気付いたようだった。
「じゃあ、また会おうねー」
手を振る楓に背を向け、識は護衛の男とすれ違った。不審に思われたのだろう。護衛の男による視線は、いつまでも識の背中に向けられていた。識は歩きながら、楓に触れられた膝を意識する。
「柊……」
思わずその名を口にして息をのむが、近付く気配に表情を整えなければならなかった。
「先に帰っていろ、と言ったはずだぞ。柘榴」
その姿は見当たらないが、その気配は確かに揺らいでいた。
「申し訳ございません。しかし、先程の巫女は……識さまの正体を見破ったようでした。後に面倒なことにならぬよう、始末すべきかと」
識の腰に刀はない。だが、抜刀したような殺気が、姿のない柘榴に向けられた。
「必要ない。余計なことをしたらお前を斬るぞ」
「……」
「戯言だ。私がお前を斬るわけがないだろう」
笑みを見せる識に、柘榴は安心したようだった。
「いえ、出過ぎたことを言いました」
「お前の忠告があったから、私はこれまで生きてこられたのだぞ。そう言うな」
柘榴の沈黙は重たかったが、決して去ることはなかった。距離を保ちながら、識の横に寄り添う。それが彼女なのだ。
「私は……識さまをお守りします。これからも」
「ああ、分かっている」
識が杠葉に話があると屋敷の中へ消え、柘榴はただ彼が戻るのを待っていた。
「よう、柘榴」
背後から声をかけてきたのは、無為だった。
「私に話しかけるな」
いつものように拒絶するが、それだけで立ち去ってくれる男ではない。
「なんだよ、いつもに増して不機嫌だな。何かあったのか?」
何があったのか。長く行動を共にした識が、自分よりも見知らぬ人間の女を優先した。それだけだ。もちろん、識には柘榴に分からない考えがあるのかもしれない。だが、柘榴の中から強い不快感は消えそうになかった。
「どうせ識のことで苛立っているんだろ?」
気安く肩に触れる手を払うが、無理は余裕のある笑みを浮かべている。
「お前はあの男に入れ込んでいるようだが、それで幸せになれると思っているのか?」
その指摘に、柘榴は瞬時に答えられなかった。
「あいつはお前を幸せにできやしないよ。いや、幸せにするつもりがない。だから、俺と組まないか? 今よりいい暮らしを約束するぜ」
柘榴は振り返り、無為を睨み付ける。
「幸せなど関係ない。私は識さまの所有物なのだから。無論、他の者と組む気はない。それが貴様のような男であれば尚のことだ」
嫌悪感を露わにしたはずが、無為はただ笑うだけだった。
「まぁ、今は分からんかもしれんな。が、何かあれば俺を頼れよ。識のやつと違って、俺はお前のために命を懸けられる男だぞ」
命を懸ける。それは自分が識のために使う言葉である。こんな男に言われると、むしろ侮辱されたような気持ちになった。
しかし、無為に向けられた瞳を見て考えてしまう。識は自分を見てくれているのだろうか、と。




