固辞
紬は境に駆け寄るが、彼は御神渡を手離すと、その場に崩れた。
「境!」
傷を負ったのだろうか。傍らに膝を付いて、様子を見るが……彼はただ泣いていた。
「か、楓……。どうして……」
その涙の意味を察して、紬は視線を巡らせると、それほど離れていない場所に、血に塗れた巫女装束を見つける。
「楓さん……」
死んだ。本当に、あの人が……。孔雀威が現れたからには、それは避けられない。分かっていたが、いざ彼女の亡骸を見ると、ただ妙に冷静な自分を知るのだった。
「境、怪我はない?」
できるだけ、刺激しないよう、静かな声をかけるが、境は嗚咽を漏らしながら、ゆっくり立ち上がり、ふらふらと楓の亡骸へ歩き出す。
(やっぱり、そうだよね……)
自分が声をかけても、境は反応すらしない。それどころか、境は楓を抱き上げると、自らの頬を寄せた。
「ああ、分かっている。もう少しだけ……やってみるから」
境はぶつぶつと呟く。まるで、楓と会話するかのように。
(もしかして、境は……)
心が壊れてしまったのかもしれない。楓が死んだことで。……自分が死んだとき、彼はここまで悲しんでくれるのだろうか。
(私には無理だよね)
どこか冷たい考えが心の中を過ぎ去った。だから、紬は御神楽衆の巫女として判断する。
「境、玄天狐党の拠点が見つかったよ。総攻撃をかけるから、一度立て直そう」
「頼む、分かってくれ。あいつだけは……殺さなければ俺はおかしくなっちまう」
聞こえていない。本当はおかしくなったように見せているだけではないか。紬は苛立ちを覚えながら、境の肩を掴んだ。
「境! しっかりしてよ!!」
「やめてくれ。楓がびっくりするだろう……」
弱々しい境の声に、紬も言葉を失ってしまう。これでは、戦えないのでは。そんな紬の不安を否定するように、境は言った。
「大丈夫だ。俺はおかしくなったわけじゃない。分かっている、山を降りるんだよな」
「……うん」
「じゃあ、行くぞ」
境は妙に淡々とした調子で山を降りる。ただ、ときどき楓の亡骸に向かって、何か声をかけているようだった。山を降りて、葛城の屋敷へ。すると、境は誰の許可を取るわけでもなく、庭の片隅に穴を掘り始めた。
「境、ここに埋めるつもりなの……?」
「ああ。仕方ねえだろ。腐った体なんて、楓だって見られたくねえだろうからよ」
楓を埋め終えると、屋敷から持ち出した板を墓標として突き刺し、その前に腰を下ろす。そこからは、いつになっても動かなかった。
「孔雀威さんは……無事か?」
ずっと後ろに控えていた紬に、境が訊ねてくる。気持ちは落ち着いたのだろうか、と戸惑いつつも、紬は答えた。
「命は取り留めたけど……眠ったままだよ。お医者さんが言うには、このまま目を覚まさないこともあるかもしれない、って」
「そうか」
御神楽衆の剣士の中には、医学を学んだ者もいる。それに樒ヶ里村の医者が加わり、どうにか治療は成功したが、あとは孔雀威の生命力がどこまで強いのか、という状況だ。
それを確認したきり、境は動かなかった。彼が再攻撃の指示を出されなければ、御神楽衆は動けないのだが……。
「境、どこに行くの?」
死ぬまで動かないのでは、と思われた境が、急に立ち上がった。もう夜も深まったからだろうか。彼は短く答えた。
「寝る」
「そう……」
樒ヶ里村にきてから、葛城から与えられた部屋に、境は引っ込んでしまう。閉められた襖は、拒絶を示すようだった。
「ご飯、食べてないよね」
紬は二人分の握り飯を用意して、部屋を訪れるが、境は畳の上で両手両足を投げ出すように寝転んでいた。
「境、食べたら?」
しかし、反応はない。しばらくの間、傍らで黙って控える紬だったが、空腹を感じる自分が情けなかった。それでも、意地を張るように耐え、ただ境を眺めていたが、より強い苦痛に襲われる。
(このままだと境は……)
楓に引っ張られるようにして、死んでしまうのではないか。それだけは、嫌だった。女として、少しでも彼をこの世につなぎとめる。そんな決意が彼女を動かした。
「境……」
やはり、反応はなかったが、紬は天井を眺める境の胴に跨るように腰を下ろす。
「ずっと、言えなかった。けど……私、境のためなら、何でもするよ」
そう告げてから、紬は腰の帯を引いた。自らの白い肌を露わにするが、それでも境は天井を見たまま、視線を動かさない。それでも、紬は息を飲んでから、ゆっくりと顔を寄せ、唇を落とす。
重なる唇は、幼いころから何度も想像した感触だった。いつか、こんな日が。だけど、思っていたものとは、まったく別のものだった。
「紬」
ゆっくりと離れると、境が口を開いた。何を言うのだろう。次の言葉に、胸が強く音を打ったが、彼は静かに言うのだった。
「……楓が見ている。やめてくれないか?」
もう耐えられなかった。紬は境から離れると、着物を直さぬまま、握り飯を壁に投げつける。それでも反応しない境を残して、部屋を出た。着物を直しながら、感情が込み上げ、涙が溢れて止まらない。
「どうして……! あの女が……!!」
悔しさに埋め尽くされ、呼吸ができない。ずっと、境が好きだった。誰よりも境を想っていた。それなのに、何が起こっているのか。もう何も分からなかった。




