不聞
わずかな楓の声を聞きながら、識は走り、やっと彼女を見つけた。しかし、その姿は無残なものだった。
「楓……?」
思わず呟くと、その傍らで刀を振り上げていた境が振り返った。その顔は黒だけでなく、赤く染まっている。
「お前が……やったのか?」
識の問いかけに、境は答えない。ただ、殺気に満ちた目で、こちらを睨み付けるだけ。だが、答えを聞く必要はない。状況から見て、何が起こったのか、明白だった。
「貴様、よくも楓を!!」
識の怒りに、境は表情を歪める。凄まじい憎悪。最初に会ったときから、この男の印象は変わらない。感情のまま斬る。そういう男なのだ。
「最低の男だ」
溢れんばかりの怒りを抑えながら、識は慎重に境へ近づく。
「自分から離れただけで、女を斬るなんて……楓を斬るなんて!」
刀を構える。この男が次に何を言おうが、必ず斬る。識はそう決めた。そして、境がついに口を開く。
「……ああ、そうだよ!!」
感情のまま、吐き捨てるように叫ぶのだった。
「この女はお前に従った。だから殺してやったんだ!!」
「外道が! お前だけは許さん!! 今ここで……殺す!」
「外道はお前だろ、妖怪! ここで死ぬのはてめえだ!!」
識は一気に間合いを詰めて、感情に剣が流されることがないよう、心を制しながら腕を振るう。だが、どうしても力任せの一撃に近かった。そんなものでは、境をかすめることもない。わずかに身を退いた境は刃を逃れると、剣先を突き出す。それに肩を裂かれながらも、識は大きく踏み込んだ。
「死ね!」
だが、境は瞬時に横一文字に振られた刃の下に潜り込むと、識の両足を切断しようと低い一閃を放ってくる。識の方も素早く反応し、跳躍してそれを飛び越えると、境の顔面に向かって足を突き出すが、これには手応えがない。それどころか、境は首を傾けてやり過ごし、刀を振り上げたのだ。紙一重。識は着地と同時にすぐさま後ろへ跳び退き、事なきを得る。
二人の間に、もう言葉はなかった。相手の命を奪う。己の体が裂けても、砕けても、それだけのために、心を費やす。だが、どれだけ剣を振っても、敵は死なない。自らも死ぬことはなかった。永遠に続くような斬り合い。そこに綻びがあるとしたら……識の方だった。
(押されている……。俺の剣はやつに届かないのか!?)
迫る境の斬撃は、再び識の体を裂く。
(今のも躱せたはずだ。この体の違和感は……!!)
境の剣は速い。それでも、普段の自分なら躱せていたはずが、刃を受けてしまった理由は、わずかな体の重さである。例の巫女は矢に倒れたはず。だとしたら、凪の神楽を舞う巫女は一人だ。
(紬か……)
彼女がいなければ、境だって確実に殺せるはずだが……。
「遅い!!」
しかし、境に強く踏み込まれてしまう。吸い込まれるような死の気配に、素早く身を退くが、腹部に強い痛みが走る。閃光のような一撃が識の腹を引き裂いたのだ。
「ぐっ……」
思わず膝を付く識。この差は凪の神楽だけではない。万象神覚による先読みによって、境はさらに一歩優位な位置に立っているようだ。
(このまま……死ぬのか)
血走った目で境が慎重に近付いてくる。無慈悲な目。いや、識の命を奪うためだけに、すべてを賭けた目は、燃え盛るようだが、水に濡れた刃のように鋭い。この状況から生き延びる手立てはないように思えたが、境の目に、わずかな動揺が見えた。
「なぜだ!!」
境が突然叫ぶ。だが、それは自分に向けたものではない。
「なぜ、そこまでしてこの男を庇う……!!」
誰かと話しているようだ。識の直感が視線を楓の方に誘導させる。もちろん、あれはただの亡骸だ。そこに楓の魂はない。
(この男、肉体から離れた楓と会話していると言うのか……??)
歯を食いしばり、葛藤する境だったが、改めて刀を構える。
「俺はこいつを殺す! お前が何を言おうとも、殺すんだ!!」
識は確信と同時に、一つの事実を突きつけられる。
(なぜ、私には楓の声が聞こえないのだ。あの男は聞こえているというのに!!)
だが、楓は自分に生きる時間を与えてくれた。境は識の前に何かを見て躊躇っている。今なら、境を殺せるかもしれない。
「境!」
しかし、女の声がどこからか聞こえた。振り返ると、黒装束の剣士を率いた紬がいた。
(まだ……死ぬわけには!)
識は立ち上がり、境に背を向けた。
「逃げるな!!」
そんな声を浴びながら、識は走るしかなかった。最後に、楓の姿を……。それすらも叶わず、ただ境から離れるだけ。黒い血を零しながら逃げる識は、己が情けなくて仕方がなかった。
「楓……。俺はどうすれば良い……??」
二人で逃げ出したとき、簡単に幸せになれるとは思ってなかった。こんな結末だって、想像しなかったわけでもない。それでも。それでも……とても、耐えられるものではなかった。
「あの男だけは……殺さなければ」
何もかも失ったと思われた自分のもとに転がってきた、楓という存在。それすらも失ったとなれば、識の残されたものは、復讐心だけだった。




