徒花
識を追っていたはずの境だったが、彼は楓の声を確かに聞いた。
――助けて、識。
どうして、その男の名前を。そんな怒りはあったが、楓が助けを求めているのなら、駆け付けないわけにはいかない。しかし、行動を共にする剣士たちは別の使命を背負っている。
「境殿、妖怪を見つけました! 指示を!」
剣士の一人が指し示した方向には、確かに逃げ去ろうとする妖怪の背中があった。逃げ出すような雑魚に構っている暇はない。それが本心だが、孔雀威の忠実な部下である彼らが、それを許すだろうか。きっと、境の指示よりも孔雀威の信念を優先するはずだ。
「紬、あいつらはお前に任せる!」
「境!?」
それでも、境は一人で飛び出す。紬が凪の神楽を舞うとしたら、楓を助け出すためにも有利に働くはず。孔雀威から解き放たれた境は、ただ楓のために動くと決意した。
「こっちか……!!」
そして、境の万象神覚は的確に楓の位置を示す。二人の運命を結びつける。それが万象神覚の導きだとすら思えた。
「楓!!」
だから、境はすぐに楓を見つけられた。彼女を犯そうとする妖怪の首を跳ね、逃げようとするもう一人の背中を斬りつけた。
「大丈夫か!?」
着物を剥がされ、乱された姿の楓だったが、どうやら間に合ったらしい。
「怪我は? 何もされていないな!?」
楓を抱き締める。もう絶対に離さない。境は強く誓った。だが、楓の声はどこか暗く響いた。
「ありがとう、境。でも……私、行かないと」
弱い力で体を引き離そうとする楓。だが、その弱さが、境の心を強く踏み躙った。
「行くって……どこに?」
「識の、ところ」
境の思考が一瞬止まる。
「嘘だ」
短く、だが、心の底から願うような境に、楓は決して目を合わせようとしなかった。そんな彼女の肩を掴んで、境は願いを重ねる。
「そんなわけがない。お前は無理やり攫われて、言うことを聞かされているんだろう? 安心しろ、俺がいれば、あの野郎には指一本触れさせない。俺があいつを殺してやる!」
「やめてよ!」
楓はやはり弱い力で境を押しのける。弱いはずなのに、境は逆らえず、後ろに反り返るのだった。
「無理やりなんかじゃない。私が選んだの。識と歩く道を……!!」
苛立ちだろうか。楓はどこか荒々しく主張し、境の目を見る。怖い。次に何を言われるのか、分かってしまうようで……怖かった。そして、その一言が境の胸を突き刺す。
「識の邪魔をするなら……私が境を殺すからね」
「……嫌だ」
「助けてくれたのは……ありがとう。でも、私はもう境と一緒にいたくない。話したくないんだ。だから……」
楓は再び視線を逸らすと、呟くように言う。
「もう向こうに行って」
暗い。暗い。暗い。
何もかもが閉ざされて行く。
胸の中にあった温かい想いが、濁って、腐って、爛れていく。
尊い想いは反転し、憎しみと痛みに変わろうとしていた。やっと、手に入れたものだった。この苦しい世界で、痛みばかりの世界で、やっと手に入れた想い。それが今、すべて否定されようとしているのだ。
「そんなの……嫌だ!!」
境は赤子のように手と足をついて進むと、楓の膝にすがった。
「嫌だ、楓! 一人にしないでくれ! 離れないでくれ!! 俺は……お前を知らなかった頃の自分に、戻りたくはない!!」
膝にしがみつきながら泣きじゃくる境。普段の彼からは想像もできない姿に、楓も痛ましく感じたのか、その頭に触れる。そんな手のぬくもりは、余計に境の心を押し潰そうとした。
「ごめん……」
彼女が憐れみの言葉を発した瞬間、二人の精神は万象神覚を通じて混じり合った。肉体のある世界の向こう側。二人はそこで交わり合い、幸福な瞬間を体験する。
そして、その先の未来を見た。
二人が穏やかな日々を暮らす時間。そこには境と楓だけではない。二人の間に生まれた子供たち。時折訪ねてくる妹の要。誰もが笑って暮らしていた。そんな春夏秋冬を幾度も重ね、二人は老いても手を取り、幸福な時間を分かち合う。人生を全うするその瞬間まで、二人は一緒になったことを後悔しなかった。
「楓……」
境は顔を上げた。
「お前も見たはずだ……。俺たちは幸せになれるんだ。こんな地獄から抜け出して、幸せに生きていける」
万象神覚に導かれてきた楓なら、二人が見た未来像が、必ずやってくるものだと分かっているはず。だとしたら、彼女だって今の選択が間違っていると理解するはずだ。そう確信していた境だったが、彼女の心は変わらなかった。
「万象神覚が見せるものがすべてじゃないよ。私は……私の未来は自分で決める!!」
「……俺に万象神覚を見せた、お前がそれを言うのか!!」
「そんな私だから言えるんだよ。境、それがどういう意味か……分かってよ」
どうして……。あれだけの未来を見せられながら、どうして選んでくれないのだ。境は理解できなかった。ただ理不尽な彼女の想いに打ちひしがれ、またも崩れる。
だが、彼女の膝は優しく境の額を迎え入れた。万象神覚が伝える彼女の感情。それは自分が心の中に抱く「愛」というものに酷似している。それなのに、彼女は決して認めてくれないのだ。
境はそんな絶望に、ただ涙するしかなかった。このまま死にたい。楓の膝の上で、優しく撫でられながら……。しかし、彼の絶望はここで終わらない。
「境、危ない!!」
楓が叫んだ直後、聞きなれた肉の裂ける音が間近で響いた。反射的に立ち上がる境だったが、そこには肩口から激しく血を流す楓の姿が。
「か、楓……!」
「きょ、う……。うし、ろ」
振り返れば、刀を持った妖怪が。それは、楓を犯そうとしていた妖怪の一人だった。境が背中を斬りつけたはずなのに、まだ息があったようだ。
「失せろ!!」
境は瞬時に妖怪の首を跳ねてから、楓に駆け寄り、傷の様子を見る。しかし、それはあまりに深く、どうすることもできないようだった。
「きょ、う……」
「待ってろ! すぐに助けてやるから……!!」
どうにか麓まで降りて、御神楽衆の剣士に処置させれば……。しかし、楓は首を横に振って笑った。
「ごめん、ね。最後の、最後、まで……」
「待て、死ぬな! 死なないでくれ!!」
楓の瞼が閉じていく。呆気なく。彼女の存在なんて、取るに足らないものだった、と世界が定めたかのように、その命は失われていった。
「……楓?」
呼びかけに反応はない。
「楓!」
それは叫んでも同じだ。境は震えながら、呼吸を確かめるが、結果は残酷なものだった。
「そんな……。どうして……!!」
境は楓の死体を抱き締める。強く抱き締めれば、彼女の血が流れて、その温もりを感じられた。
「うわあああぁぁぁーーー!!」
喉が千切れるような絶叫。だが、事実が変わることはない。
――向こう側で待っているから。
抱き締めているはずの楓の声が、後ろから聞こえた。
――そこでまた会ったら、一緒になろうね。
さらに、優しい温もりが境の頭を包んだ。彼女はすぐ後ろにいる。だけど、境は振り返らなかった。そこに楓が立っていることはない、と知っているから。
「向こう側に行けば……会えるんだな?」
境は傍らに捨て置いた御神渡を手に取る。
「じゃあ、すぐに行くから……!!」
御神渡の柄を逆手に握り、自らの腹に突き刺そうと、腕を振り上げた。しかし、境の万象神覚が告げる。明確な言葉ではなかった。だが、境にはこう聞こえた。決着を付けろ……と。
「楓……?」
その声はやや後方から。誰がそこにいるのか、境は分かっていた。ゆっくり振り返れば、狐を模した面で顔を覆った男の姿。識だった。




