暗澹
識を見送ってから、楓は木の影に隠れる。
「……痛い」
一人になって気が抜けたせいか、どうにか忘れようとしていた激しい痛みを思い出してしまった。ずっと、頭が痛い。頭の中をかき混ぜられるような激痛だった。
「こんな風になるなんて、知らなかったからなぁ」
彼女は翳の屋敷を出てから、ずっと万象神覚を駆使していた。識に危険がないよう、常に周りを警戒していたのである。だが、その負担がこのような頭痛という形で現れるとは。
「でも、識のためなら……」
楓は目を閉じる。ずっと、自由のない人生だった。母と一緒に貴人に保護され、何をするにも、どこへ行くにも、決められていた。貴人が歳を重ね、体力が落ち始めると、少しは勝手もできるようになったが、雅な生活を捨てるほどの勇気はない。だから、屋敷を抜け出して、古守を困らせても、結局は帰ってきた。
それなのに、ある日のこと、万象神覚が告げられる。この世界の理から抜けるのなら、この土地に向かえ、と。そこで出会った識と境。二人のどちらかだと、すぐに分かった。だけど、どっちだろう。分からなかったが……万象神覚は言った。
境を選べ。
もちろん、境が嫌いだったわけはない。むしろ、好ましく思っていた。一緒に来てくれる。迷わずそう言った彼を信じたいと思っていた。それなのに……。
「私は自分で選びたかった……」
万象神覚に逆らいたかったわけでもない。ただ、識の悲しみに強く触れたとき、自分の意思で決めようと思ってしまった。万象神覚に従った未来は、何もかも当然の結果で、自分の心を震わせることはない。でも、自分の意思で決めて、その先に本当の満足があるとしたら。
彼を守ってみせよう。万象神覚が告げる未来を拒絶し、彼を選んでしまった。
「それとも、愛されるだけじゃなくて、愛してみたかったのかな」
愛している。
愛している。
愛している。
彼のためなら、この身が焼けてもいい。
楓の何がそうさせたのか、想いは今も膨れ上がる一方だ。今だって、早く戻ってきてほしいと思っている。すぐに抱き締めて、口付けして……二人で溶けてなくなってしまいたい。
「だけど、識が後悔しないように、最後までやり遂げないとね」
彼の満足のためなら、彼が喜んでくれるなら、何だってやる。力がみなぎってくる。そうか、これが愛しているということなんだ。だとしたら、この世界も悪くない。まさか、そんな風に思える日がくるなんて。
「紬ちゃんに、お礼を言えばよかった」
気付かせてくれた彼女に、もう一度会って礼を伝えたい。でも、向こうはそんな風に思ってくれることはないだろう。むしろ、境から離れた今も恨んでいるかもしれない。
「……あれ?」
また強い頭痛の波。そこに警告が含まれていることに、楓は気付かなかった。そろそろ識が御神楽衆の巫女を襲撃する頃だろう、と楓が深く息を吐いた、そのときだった。
「やっぱり、見失っちまったんじゃねぇのか」
「いや、俺は見た。こっちだ」
何者かが近付いてくる。御神楽衆だろうか、と木の影から覗いてみると……彼らは妖怪だった。間違いない、仲間だ。仲間なのだが……。
「あの巫女を抱けなかったら、どうするんだよ。御神楽衆に殺されるかもしれないってのに」
「どうせ殺されるんだ。最後に良い想いできる方に賭けようぜ」
「……まぁ、そうだな。あの女を犯せるなら、その価値はあるかもしれない」
二人組の目的は、自分だった。どうして、ここまで危険を察知できず、近付けてしまったのだろう。それは、万象神覚に触れ続けた疲労によって、感覚が鈍っていたのだろう。識を守るため。そんな彼女の想いが、絶望を寄せ付けてしまったのである。
「あっ、いたぞ!」
一人に気付かれると、もう一人もこちらを見た。すると、二人が同時に下卑た笑みを浮かべて、こちらに駆け寄ってくる。逃げなくては……。
楓は必死に走る。識の方へ逃げるべきだったかもしれない。だが、彼女は慌てるあまりに判断を間違えた。識がいるだろう方向とは逆に走り出してしまう。
「やっぱり、良い女だ!」
「俺が先だぞ! 絶対に俺が先だからな!」
妖怪たちの欲情がすぐ後ろまで迫っている。楓の足ではすぐに追いつかれ、組み伏せられてしまうのは間違いない。助けを求めなければ……。
(でも、今声を伝えたら……識の邪魔になっちゃう!)
きっと、識は今この瞬間、弓を引いて集中力を高めているところだろう。そこに、自分の声が届いてしまったら。
(絶対にできない!)
だが、このままでは……。
(それも駄目だ。柊と同じ死に方は、絶対に駄目!)
走る。走る。足がもつれる。それでも、一歩でも遠くへ逃れなければならなかった。
――楓!
識の声が聞こえた。そうか、成功したんだ。だったら、助けを求めても邪魔にならないはず。
(識 、こっち! 助けて!)
呼びかけるが、上手く想いが飛んで行かない。これも、数日続けて万象神覚に触れ続けたせいなのだろう。あらゆる感覚が鈍っているみたいだった。
「捕まえたぁーーー!!」
裾が掴まれ、強引に寄せられる。
「嫌!!」
拒絶するつもりが、何が起こったか理解する前に、背中を地面に打ち付けられていた。そして、両手を抑え付けられる。
「やめて! 離して!」
「黙れ!!」
頬を打たれる。だからと言って、大人しくするわけにはない。犯されるわけにはいかない。殺されるわけにはいかない。無事に会わなければならないのだから。それなのに……圧倒的な力は楓という存在をねじ伏せ、従わせようとする。
(嫌だ……。助けて……)
着物を剥ぎ取られ、頬におぞましい感触の舌が這う。もう一度抵抗を試みようとするが、二人がかりでは、どうすることもできなかった。
(識、ごめんなさい)
涙が溢れる。分かっていたこと。彼の手を取る前から、報われるような結末はないと分かっていたが……思っていたよりも、強い絶望が自分たちを押し潰そうとしている。妖怪の下腹部で反り立つものを見て、呼吸が止まってしまう。
もう駄目だ。やっぱり、嫌いだ。こんな不幸しかない世界なんて。暴力と性欲に溢れた世界なんて。そして、そんなものに縋らなければ生きていけない、空っぽな自分が。
楓が目を閉じると、頬に何か液体が付着した。最悪だ。強い嫌悪感を抱くが……。
「楓!!」
その声に目を開けると、自分の前にいた妖怪の首が落ちて、黒い血潮を吹き出していた。頬に付着したのは血だったらしい。何者かが、妖怪の首を切断したのだ。楓を助けるために。しかし、楓を助けたのは、彼女が助けを求めていた相手では……なかった。
「……境」
瞳を揺らす彼女の前には、御神渡を手にして、顔を黒く染めた境が立っていた。




