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徒花の巫女  作者: 葛西渚
第三章 蝕まれる世界
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暗澹

 識を見送ってから、楓は木の影に隠れる。



「……痛い」



 一人になって気が抜けたせいか、どうにか忘れようとしていた激しい痛みを思い出してしまった。ずっと、頭が痛い。頭の中をかき混ぜられるような激痛だった。



「こんな風になるなんて、知らなかったからなぁ」



 彼女は翳の屋敷を出てから、ずっと万象神覚を駆使していた。識に危険がないよう、常に周りを警戒していたのである。だが、その負担がこのような頭痛という形で現れるとは。



「でも、識のためなら……」



 楓は目を閉じる。ずっと、自由のない人生だった。母と一緒に貴人に保護され、何をするにも、どこへ行くにも、決められていた。貴人が歳を重ね、体力が落ち始めると、少しは勝手もできるようになったが、雅な生活を捨てるほどの勇気はない。だから、屋敷を抜け出して、古守を困らせても、結局は帰ってきた。


 それなのに、ある日のこと、万象神覚が告げられる。この世界の理から抜けるのなら、この土地に向かえ、と。そこで出会った識と境。二人のどちらかだと、すぐに分かった。だけど、どっちだろう。分からなかったが……万象神覚は言った。


 境を選べ。


 もちろん、境が嫌いだったわけはない。むしろ、好ましく思っていた。一緒に来てくれる。迷わずそう言った彼を信じたいと思っていた。それなのに……。



「私は自分で選びたかった……」



 万象神覚に逆らいたかったわけでもない。ただ、識の悲しみに強く触れたとき、自分の意思で決めようと思ってしまった。万象神覚に従った未来は、何もかも当然の結果で、自分の心を震わせることはない。でも、自分の意思で決めて、その先に本当の満足があるとしたら。


 彼を守ってみせよう。万象神覚が告げる未来を拒絶し、彼を選んでしまった。



「それとも、愛されるだけじゃなくて、愛してみたかったのかな」



 愛している。

 愛している。

 愛している。

 彼のためなら、この身が焼けてもいい。


 楓の何がそうさせたのか、想いは今も膨れ上がる一方だ。今だって、早く戻ってきてほしいと思っている。すぐに抱き締めて、口付けして……二人で溶けてなくなってしまいたい。



「だけど、識が後悔しないように、最後までやり遂げないとね」



 彼の満足のためなら、彼が喜んでくれるなら、何だってやる。力がみなぎってくる。そうか、これが愛しているということなんだ。だとしたら、この世界も悪くない。まさか、そんな風に思える日がくるなんて。



「紬ちゃんに、お礼を言えばよかった」



 気付かせてくれた彼女に、もう一度会って礼を伝えたい。でも、向こうはそんな風に思ってくれることはないだろう。むしろ、境から離れた今も恨んでいるかもしれない。



「……あれ?」



 また強い頭痛の波。そこに警告が含まれていることに、楓は気付かなかった。そろそろ識が御神楽衆の巫女を襲撃する頃だろう、と楓が深く息を吐いた、そのときだった。



「やっぱり、見失っちまったんじゃねぇのか」


「いや、俺は見た。こっちだ」



 何者かが近付いてくる。御神楽衆だろうか、と木の影から覗いてみると……彼らは妖怪だった。間違いない、仲間だ。仲間なのだが……。



「あの巫女を抱けなかったら、どうするんだよ。御神楽衆に殺されるかもしれないってのに」


「どうせ殺されるんだ。最後に良い想いできる方に賭けようぜ」


「……まぁ、そうだな。あの女を犯せるなら、その価値はあるかもしれない」



 二人組の目的は、自分だった。どうして、ここまで危険を察知できず、近付けてしまったのだろう。それは、万象神覚に触れ続けた疲労によって、感覚が鈍っていたのだろう。識を守るため。そんな彼女の想いが、絶望を寄せ付けてしまったのである。



「あっ、いたぞ!」



 一人に気付かれると、もう一人もこちらを見た。すると、二人が同時に下卑た笑みを浮かべて、こちらに駆け寄ってくる。逃げなくては……。



 楓は必死に走る。識の方へ逃げるべきだったかもしれない。だが、彼女は慌てるあまりに判断を間違えた。識がいるだろう方向とは逆に走り出してしまう。



「やっぱり、良い女だ!」


「俺が先だぞ! 絶対に俺が先だからな!」



 妖怪たちの欲情がすぐ後ろまで迫っている。楓の足ではすぐに追いつかれ、組み伏せられてしまうのは間違いない。助けを求めなければ……。



(でも、今声を伝えたら……識の邪魔になっちゃう!)



 きっと、識は今この瞬間、弓を引いて集中力を高めているところだろう。そこに、自分の声が届いてしまったら。



(絶対にできない!)


 だが、このままでは……。


(それも駄目だ。柊と同じ死に方は、絶対に駄目!)



 走る。走る。足がもつれる。それでも、一歩でも遠くへ逃れなければならなかった。



 ――楓!



 識の声が聞こえた。そうか、成功したんだ。だったら、助けを求めても邪魔にならないはず。



(識 、こっち! 助けて!)



 呼びかけるが、上手く想いが飛んで行かない。これも、数日続けて万象神覚に触れ続けたせいなのだろう。あらゆる感覚が鈍っているみたいだった。



「捕まえたぁーーー!!」


 裾が掴まれ、強引に寄せられる。


「嫌!!」



 拒絶するつもりが、何が起こったか理解する前に、背中を地面に打ち付けられていた。そして、両手を抑え付けられる。



「やめて! 離して!」


「黙れ!!」



 頬を打たれる。だからと言って、大人しくするわけにはない。犯されるわけにはいかない。殺されるわけにはいかない。無事に会わなければならないのだから。それなのに……圧倒的な力は楓という存在をねじ伏せ、従わせようとする。



(嫌だ……。助けて……)



 着物を剥ぎ取られ、頬におぞましい感触の舌が這う。もう一度抵抗を試みようとするが、二人がかりでは、どうすることもできなかった。



(識、ごめんなさい)



 涙が溢れる。分かっていたこと。彼の手を取る前から、報われるような結末はないと分かっていたが……思っていたよりも、強い絶望が自分たちを押し潰そうとしている。妖怪の下腹部で反り立つものを見て、呼吸が止まってしまう。


 もう駄目だ。やっぱり、嫌いだ。こんな不幸しかない世界なんて。暴力と性欲に溢れた世界なんて。そして、そんなものに縋らなければ生きていけない、空っぽな自分が。


 楓が目を閉じると、頬に何か液体が付着した。最悪だ。強い嫌悪感を抱くが……。



「楓!!」



 その声に目を開けると、自分の前にいた妖怪の首が落ちて、黒い血潮を吹き出していた。頬に付着したのは血だったらしい。何者かが、妖怪の首を切断したのだ。楓を助けるために。しかし、楓を助けたのは、彼女が助けを求めていた相手では……なかった。



「……境」



 瞳を揺らす彼女の前には、御神渡を手にして、顔を黒く染めた境が立っていた。

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