一矢
境は焦りを抑えながら、山を睨み付けるが、ときどき聞こえてくる断末魔の叫びに恐怖を感じていた。
「まだだよ、境」
同じように隣で山を眺めていた孔雀威が言った。
「もっと痛めつけて、妖怪たちの心をしっかり折ってやってから、討者のお前が行くんだ。そのとき、妖怪たちが感じるだろう絶望を想像すると、今から笑ってしまいそうになるね」
そう言う孔雀威だが、もちろん顔は笑っていない。すると、山から降りてきた剣士の一人が、孔雀威の前に片膝を付いた。
「順調に事は進み、山の中腹辺りまで包囲網を狭めています。このまま、山頂にある妖怪の拠点まで進行可能かと……」
報告を聞きながら、銀髪の巫女を見たかと剣士に確認したかったが、孔雀威の前ではそうはいかなかった。だが、当の孔雀威は満足そうに頷く。
「よし、大詰めだ。紬!」
少し離れたところで凪の神楽を舞っていた紬だが、孔雀威に呼ばれて、すぐに駆け寄ってきた。
「少し休みなさい。代わりに私が舞う」
「は、はい」
孔雀威が舞う。それは妖怪たちをさらに追いつめる、という意味だ。境は密かに思う。もし、識が楓と一緒にいるなら……死ぬ気で守ってみせろ、と。
「さて……妖怪たちに苦痛を味あわせてやるとしよう」
孔雀威が舞い始める。それは、強い緊張感と神気に溢れ、境も呼吸が重たく感じた。しかし、不思議なことに、周りの空気が浄化され、澄み渡っていくようにも感じられる。
ただ、当の本人は無表情に、黒い血が流れることを願っているものだから、歪な空間が広がっていた。そして、その歪な何かは山一つを覆っている。境は孔雀威に言った。
「孔雀威さん、もういいだろう! そろそろ俺も妖怪狩りに参加させてくれ!」
「まだだ。まだ足りない」
孔雀威は舞いながら山の中に入っていく。凪の神楽は妖怪に近ければ近いほど、その効果を発揮する。今頃、妖怪たちはさらに身体の異常を感じているだろう。
「もう十分だろ……!!」
境は呟きながらも、冷静に周囲を見渡す。孔雀威を守る剣士は十人ほど。しかも、彼らは境を囲うように配置されている。これは孔雀威の命令によるものなのだろう。自分が勝手な動きを見せたときは、すぐに止められるように……。
「紬」
境は隣にいる紬だけに聞こえるよう声を落として言った。
「頼む。何でも良いから、剣士たちの気を引いてくれ。一瞬でいい。そしたら……」
「駄目だよ」
紬は静かに制止する。
「そんなことしたら、境まで裏切者になっちゃう。もう帰るところもなくなっちゃうんだよ!?」
帰る場所がなく、彷徨い続けた幼少期。そんな生活に戻るとしたら……。でも、楓と一緒ならそれも構わない。自分にとって、帰る場所は楓になるはずなのだから。
「それでも良い。俺は……御神楽衆を抜ける!」
「……何言っているの??」
紬の顔が青ざめていくが、境は本気だった。
「頼む、楓のためなんだ。このままだと……あいつは死んでしまう。御神楽衆に殺されるんだ!」
「だって、それは……!!」
仕方がない。そう言う紬が信じられなかった。
「あいつが死んでもいいって言うのか!? 俺たちのために戦ってくれた、あいつのことを!!」
「それは……」
紬は何も言わない。ただ、口を結んで耐えるかのように拳を握り締めるだけだ。
ずっと、紬を信じていた。どんなときも、一緒に戦ってくれる。姉のように。いや、自分の体の一部……半身と言っても良かった。
それなのに、どうして分かってくれないのだろうか。ここで御神楽衆を抜けなければ、楓が死んでしまうことを……。
「そんな薄情な女だったのかよ、お前は……」
「薄情……」
絶望から出た言葉に、紬は瞳を揺らす。それでも、彼女は協力するとは言ってくれない。こうなったら、一人でもやるしかない。境が覚悟を決めた、そのときだった。
「孔雀威さん、危ない!!」
唐突に万象神覚がこの先に起こる出来事を告げた。神気の中、ゆったりとした動きで舞う孔雀威。その胸に矢が突き刺さっていた。一瞬先に起こるだろう出来事を回避するため、境は叫んだが……遅かった。
「うっ……!!」
孔雀威の胸に矢が一本突き刺さる。どこから、と境は矢の角度から弓を使ったものの居場所を予測して、振り返る。
「……識!!」
木の影に隠れ、姿を消そうとする狐の面。だが、境は孔雀威の安否を確認した。もしかしたら、あの人が死んだかもしれない。そんな期待感と罪悪感と共に、孔雀威を見ると……ゆらり、と彼女の体が傾き、背中から倒れようとしていた。
それを見て、わずかな安堵を覚える境だったが、孔雀威の体が傾いたまま、ぴたりと止まる。その異様な光景に誰もが息を飲んだが、孔雀威の足がしっかりと大地を踏みしめたかと思うと、その体を真っ直ぐ伸ばした。
「行け」
そして、彼女は指先を山頂の方に向け、普段と何も変わらない調子で言った。
「境、紬。行きなさい。このまま……妖怪を皆殺しにするんだ」
矢はどう見ても深く突き刺さっている。実際、彼女の白い巫女装束が赤く染まり始めているのだから。それでも、彼女は顔色一つ変えることはなかった。
「さぁ、行け」
「……はい!!」
境が返事すると同時に、孔雀威は目を開いたまま、今度こそ倒れる。数名の剣士が素早く彼女を抱きかかえ、傷の調子を見たが、境はその場を飛び出した。もはや、孔雀威が生きようが死のうが関係ない。彼女が「行け」と言ったのだから。
「紬、行くぞ!」
「どこ行くの!? 山頂に向かうなら……こっちだよ!?」
「識の野郎がいた! あいつを殺せば……この戦いだって終わる!!」
走る境だったが、その背後に紬の気配をしっかり感じる。大丈夫だ。いつも通りだ。境は自分に言い聞かせる。今までのように、紬と力を合わせて戦えば、妖怪たちに勝てるはず。楓だって取り戻せるはずだ……と。
しかし、希望を抱く境を待つのは、残酷な現実であった。




