視線
杠葉の三味線が聞こえなくなって、識は蝕のいる社へ戻ろうとしたが、簡単ではなかった。御神楽衆に追われ、逃げ惑うしかなかったからである。それでも、山の中で数名の仲間と合流し、励まし合うように社へ向かうが、疲弊は濃くなるばかりだった。
「これでは、屋敷を逃げ出して山を彷徨ったときと同じだ」
識は呟くと楓が顔を上げる。
「ごめん、私のせいで……」
「そうじゃない。楓のおかげで、ここまで来れたんだ」
二人は少し離れたところで休む仲間たちを眺めながら話し合っていたが、楓の万象神覚を借りても、状況が好転するとは思えなかった。
「このままでは玄天狐党は絶滅する……。それは事実として認めなければならない」
だが、それで復讐を果たせるだろうか。蝕と境を殺す。特に蝕については、識にとって生きる目的だった。遂げられないとしても……良いのかもしれない。そう考えながら、識は楓の銀髪を指先ですくうと、彼女は微笑んだ。自分が死ぬとしても、彼女は生かさなければ。識は言った。
「今なら……楓は逃げられるはず。私に構う必要など、ないのだぞ」
「うーん?」
銀髪に触れる識の手を取りながら、楓は真っ直ぐこちらを見てくる。
「どうして、嘘を吐くの?」
「……」
「私に嘘を吐いても意味がないって、分かっているでしょ?」
楓は識の手を引き、二人の体が近付く。
「識は私と離れ離れになったら、泣いちゃうよ? そんなの……私だって嫌だよ」
否定しない識の仮面に、楓が手を伸ばす。
「何をするつもりだ」
「二人きりのときは、これは外してほしい」
識は躊躇う。仲間たちから離れているとは言え、誰かが見ているかもしれない。そんな識の不安を楓は笑った。
「大丈夫。誰も見てないから」
そう言われては、断るわけにもいかない。識はされるがままに、面を取り外させた。先程以上に、真っ直ぐな目で見つめられる。よく見ると少し青みがかかった瞳は、いまだに何を考えているのか、分からないところがあった。口付けを受け入れると、楓は識の頬を撫でる。
「識は私が守ってあげる。もう悲しい想いはさせないよ」
「もう十分救われた」
「ううん。これだけじゃ足りないよ。心も身体も満たしてあげる。識が嫌になるほど、幸せにしてあげないと、私が満足できない」
しかし、二人の未来につながる道は残っているのだろうか。識も楓も生き残る術を考えた。
「あ、烏頭草だ」
楓が足元を眺めながら呟く。彼女の視線の先を見ると、枝の先に集まった葉が四方に広がる植物が生えていた。
「知っている?」
楓が千切って見せていたが、気にしたこともない植物だった。
「これね、凄いんだよ。こうして潰すと……こんな風に黒くなるの」
葉を潰してから、楓が手の平を見せると、そこは黒く染まっていた。
「昔ね、この髪が変わったばかりのころ、黒く染めるためによく使っていたんだ」
「その髪のせいで疎まれたのか?」
楓は苦笑いを浮かべて、何も語らなかったが、別の提案があるらしかった。
「識も髪の色、変わっちゃったけど……これを使えば相馬さんに化けて、また潜入できるんじゃない?」
「いや、それは難しいだろうな」
「どうして?」
「こう御神楽衆の包囲が厳しければ、村に降りるのも難しいだろう」
「……そっかー。良い案だと思ったんだけどなぁ」
嘘を吐いた。が、彼女は気付かなかった。いや、気付いていないふりをしてくれているのだろうか。本当は、彼女を一人にさせるわけにはいかないからだ。相馬として村に降りれば、簡単には戻ってこれない。その間に、柊と同じことがあったら……。
「大丈夫」
楓が識の手に、自らの手を重ねる。
「私は大丈夫だよ」
識は彼女の手を握った。
「この状況を打破するためには、凪の神楽を止める必要がある」
「うん。応援にきた、あの巫女だね」
識は頷く。仲間たちの覇気がない理由は、凪の神楽によるところも大きかった。楓の舞いよりも、強い凪の神楽。識はもちろん、妖怪たちはこれだけ身体が重たくなる経験はなかっただろう。
「二人だけなら、御神楽衆の包囲を突破して、あの巫女を不意打ちで倒せるかもしれない」
「そうだね。できるだけ近付いて、矢で狙えば……」
「楓……。すまないが、もう一度だけ力を貸してくれ。あの巫女さえ討ち取れば、玄天狐党の妖怪たちも、命だけは助かるはずだ」
楓は微笑む。識のために。
「識は責任感が強いんだねぇ」
そう言いながら、彼女は手を強く握り返してきた。
「いいよ。私、識のためなら……何でもするから」
「……ありがとう」
「あ、またお礼言ってくれた」
「これからは、何度だって言うさ」
再び口付けを交わすと、識は面を付けて、仲間たちの方へ向かった。
「帳!」
「なんでしょうか」
識の一声で帳が駆け寄ってきた。
「この後、凪の神楽が止まる。そしたら、お前が妖怪たちを連れて、蝕さまの社へ向かえ」
「分かりました。……しかし、どうやって凪の神楽を止めるのです?」
「聞かないでくれ。だが、必ず止める」
帳は識の覚悟を見定めるように、視線を向けてくるが、やがて諦めるように肩を落とした。
「彼らは私に任せてください」
「ああ、今は良く休むよう、言っておいてくれ」
「必ず……我々のもとに帰ってきてくださいね」
識は面の奥で微笑みを浮かべ、帳の肩を叩いた。この男に任せれば、きっと妖怪たちは生き残るだろう。あとは自分自身が生き残れるかどうか、だ。
振り返ると、楓が穏やかな微笑みを浮かべながら、自分を見守っていた。そうだ、彼女のためにも死ぬわけにはいかない。必ず帰ってくるのだ。識はそう心に決めた。
葛城は見てしまった。妻の死体を見て頭に血が昇り、一人で山の中に入り込んで識を探していたのに。
「まさか……相馬さんが、識だったなんて!!」
木の影から、妖怪の群れを観察していると、面を取る識の姿を見てしまったのである。
「う、嘘だ……。あの男……!!」
ずっと信じていた男。それが自分たちを恐怖に陥れていた妖怪だったなんて。妻を殺した、憎き妖怪だったなんて。
自分の命を引き換えにしても、識を殺すつもりで山に入った葛城だったが、今はただ恐ろしかった。目にした事実が信じられず、恐ろしかったのだ。
彼は込み上げる悲鳴を両手で抑えながら走る。この気持ちが破裂する前に、この妖怪の群れから離れなければ……と。




