交響
村に杠葉の音色が響く、少し前のこと。杠葉が何をするつもりか、識は見当もつかなかった。が、平らな岩の上に腰を下ろし、杠葉が三味線を構えると、空気が変わったような気がした。
(そういえば……この男が三味線を奏でる姿をまともに見るのは初めてかもしれない)
期待、というわけではないが、何かが起こる予感が識の中にあった。杠葉は目を閉じ、何度か大きく呼吸を繰り返すと、瞼の動く音が聞こえるのではないかという力強さで目を見開き、
空気の震える音が山の中に響き渡る。その音に、識の中で何かが震えたような気がした。心地よさそうな笑みを浮かべながら、音を奏でる杠葉だが、その瞳が妖怪と同じ赤色に染まる。
(あれは……仄から授かったという邪視か)
杠葉の目は、女たちを惑わす力が秘められている。それを使って、毎晩のように三味線の音色を聞かせていたようだが、下らない力の使い方だと思っていた。しかし、杠葉から放たれる妖気は尋常ではないように感じられる。
「さぁ、女たちよ……」
杠葉が呟くと、三味線の音色はより空気を震わせ、どこまでも響き渡るようだった。
「この音色に惑え! 私の奏でる旋律を遮ろうとする、雅な音が分からぬ愚か者たちを排除するのだ……!!」
何が起こっているのか、識はすぐに理解した。
(なるほど。邪視の力を音に乗せているのか)
本来、邪視は自らの目を見た人間に対し、影響を与えるものだ。つまり、相手が見える距離でなければ、その力は届かない。しかし、杠葉は力を音に乗せることで、遠くに離れた人間に対し、邪視の効果を届けているようだ。大した力ではないが、毎晩のように三味線を聞いていて、杠葉の支配下に置かれた女であれば、自在に操れるのだろう。杠葉は言う。
「女たちに御神楽衆を襲わせ、混乱に陥れてやる。だから、その間にどうにかしろ!」
「分かりました。では、杠葉殿は敵を引き付けていただきたい」
「どういうことだ??」
音を聞きつけた御神楽衆は必ず山の中に入って、杠葉の命を狙うはずだ。だから、杠葉は何度も位置を変え、できるだけ御神楽衆の剣士を引き付けられるはず。それを伝えると、彼は気に食わないようだった。
「それでは、私が魚の餌のようではないか!」
「極上の餌であれば、大魚が釣れるはず。頼みました」
「むぅ……。物は言い様だな!」
口では不満を零すようでも、満更でもないらしい。三味線の音色は、さらに張りが出たようだった。
(しかし、問題がある)
識は小さく溜め息を吐く。杠葉が御神楽衆を山の中に誘い込めば、辺りは敵だらけになる。本丸を叩く前に、こちらが疲弊してしまうことは、十分に考えられた。さらに言えば、妖怪たちが山から出られないよう厳しい包囲があるかもしれない。村まで辿り着けるかどうか……。
「大丈夫」
すると、事を見守っていた楓が、識の背に触れた。
「私がいる。識は失敗しないよ」
識は振り返ってから、楓の手を取る。
「……一人にさせるかもしれない」
「それも大丈夫」
識は頷いた。そこから、識は妖怪たちを引き連れ、楓が示した方向に移動する。楓が足を止め、識に頷くと、村が見渡せる場所まで辿り着いたことに気付いた。御神楽衆が村に陣取った拠点も見える位置のため、識は妖怪の視力を持って、敵の様子を観察する。
(あの巫女が大将首か……?)
一目でわかった。紬だけでなく、境すらも委縮した態度を取る、不気味な女。あれが玄天狐党の皆殺しを企んでいる。強い執着心と殺戮の意思が感じられた。かなり危険な敵のようだが、ここから真っ直ぐ駆け抜ければ、一息に討ち取ることもできるかもしれない。しかし……。
(やはり、麓は固められているか……)
この斜面を降りれば、村に突入できるが、その手前で多くの剣士たちが控えている。奇襲を仕掛けたいところだが、それは難しいように思えた。
「大丈夫って言ったでしょ? 見てて」
傍らの楓が言うと、守りを固めていた御神楽衆が移動を始めた。どうやら、杠葉が奏でる三味線の音色を聞いて、そちらの対処を優先したらしい。すべての障害が消え、目の前が開けていくようだ。
これが万象神覚の力。楓がいれば……すべてが思うままに進められる。識は隣で得意げに微笑む楓を見て、複雑な感情を抱くのだった。
「進め、妖怪たちよ! 今なら敵の本丸を一息に崩せるはずだ!!」
指示に従って、妖怪たちが山の斜面を一気に駆け降りると、識は楓を見た。
「何が起こるか分からない。隠れているんだぞ」
「分かっているよ」
「君に何かあったら、俺は……」
離れたら、彼女は命を落とすかもしれない。柊がそうだったように。強い不安は拭い去れないが、楓は識の手を取ると、優しく包み込んだ。
「私は絶対にいなくならない。約束だから」
彼女の手から、その想いが流れ込んでくるようだった。恐らく、万象神覚を通して、識に安心感を与えてくれるのだろう。楓の存在は、ずっと傷だらけで歩んできた識の心を癒し、その中を一色に染めようとしている。それは、とても抗えない。何かを手に入れる喜びは、同時に失う恐怖もある。分かっていながら、彼女を愛しく思わずにはいられないのだ。
「行ってくる」
「うん」
識は斜面を降りて、先を行く妖怪たちを追いかけた。
「村の女たちは杠葉の傀儡だ。上手く利用しろよ!!」
覚束ない足取りで進む女たちの中を駆け抜ければ、やはり御神楽衆は簡単に手を出してこなかった。このまま、御神楽衆を撹乱し、その先にいる大将首を取る。識は勝ち筋を見た。しかし……。
(なんだ?? 体が……重い!?)
突然、見えない天井に押し潰されるような圧迫感に襲われる。
(凪の神楽か! それにしては……!!)
味わったことのない圧力だった。楓による凪の神楽を体感したときも驚いたが、その比ではない。まともに動けるのは、自分だけではないか。
(まさか、あの巫女か??)
思い浮かぶのは、境と紬を従えていた巫女だ。不気味な気配を感じていたが、このような力まで持っていたとは……。識は焦りを感じる。きっと、この先には境もいるだろう。苦戦を強いられるのは間違いなかった。




