7 フロックスの町
ニキを見送ってから店を出た私は、彼女のいた橋とは反対の方角に向かって歩き始めた。時折湿った夜風が切り揃えた前髪を打つ度に後ろを振り返りたくなったが、そうはしなかった。
もうじき道行く男たちの誰かがニキを見初め、彼女を買っていくことだろう。そして彼女は男の腕に絡まり、その願いを聞いては、やがてそれを叶えてしまうのだろう。何もこぼすまいと、男の目を優しく見つめながら。
今振り返るのは、つまりはそういうことだった。その青ざめた空想に、色を与えることだった。
ほんの数分前まで溢れるほどに満たされていたこの心に、もうこれだけの隙間が芽生えていたことに私は驚き、そして笑った。
ニキは、今の彼女が差し出せるすべてのものを偽りなく私に見せてくれたというのに、自分はそれ以上のものを彼女に求めようとしているのだ。
「こんなことでは、ニキに会わせる顔がないな」
所在のない私は夜に向かって呟いた。
通りのそこかしこから漏れ出す歌声や喧騒は、彼女と過ごした時間が今も地続きであることを私に知らせようとしていたが、それだけでは私をどこにも連れていきはしなかった。
『フロックス』と呼ばれるこの町のささやかな目抜き通りには、町の名にちなんだ羊のイラストなりシルエットが溢れ、その内のいくつかは大きく口を開けて笑っていた。
私は目が合った一匹の陽気な羊に力なく微笑んだ。押し並べて快活で、あまり物事に拘泥しないこの町の気質が、彼にはよく表れていたのだ。
その体毛は長らくの風雨に耐えかねたようにくすんでは剥がれ落ち、欠けた部位にはかつてそこにあった店に由来するはずのどこか異国の花がうっすらと消え残っていた。この町の者はそれを綻びとさえ感じることはないだろうと、私は思った。
鳩の糞でも塗り込んだように薄汚れた家々も、桁の外れた雨どいも、不揃いな石畳や朽ちかけた階段も、すべてはこの町が呼吸をしている証だとでもいうように、通りから見る人々は今も無関心に杯を掲げ、笑いあっていた。
彼らはそうやって朝が来るとは露にも思わずに、ただこの夜を祝うように愉しんでは、新しく訪れた一日を何食わぬ顔でやり過ごしていくのだろう。
『つまらない者たち(フロッキー)』と呼ばれて始まる人夫としての朝を、あるいは遊女としての夜を、笑ってやり過ごせるだけの軽さがこの町の人々にはあった。
日銭に事を欠いたとしても、自らの軽さだけはもう誰にも奪われることがないと彼らは身をもって知っている。それだけにこの町の灯かりには、憂いがないのだ。
この町はそうやって、物心のついたときから人が群れることで放つ光を享けて育ってきたのかもしれない。
どこからともなく流れてきた旅人たちが傍からそれを眺め、やがてその足を止めてしまうのは、こうして町を歩いてしまうと私にも分かるような気がした。
どのみち軽さに打たれて生きるのなら、笑いながら生きていたいと願う者を笑うことなどできないのだから。
「私も、そのひとりという訳か」
人が抱え込んだ鬱屈や屈託を、ただ寝かせるようにしてやり過ごしてしまう生き方があるのだとすれば、彼らとともに夜を囲む私にも、きっと同じことができるはずだった。
あるいはそうでもしないと、今夜ニキから貰ったはずのものを見失ってしまいそうな気がした、というのもあるだろう。
「ねぇ、おじさん。これ、ひとつちょうだい」
過ぎ去ろうとした酒場の露店でふと足を止めた私は、差し掛かる折に目路に入れていた小さな瓶を手にとって言った。手のひらに収まるほどの、慎ましい小瓶だった。
「おおっと、お嬢ちゃんにはそいつは売れないぜ。アクア・ビアまでにしときな」
醸造した酒は与えておきながら、蒸留した酒を私から取り上げようとする理屈はどこの国も変わらぬものらしいが、そうなるとしかし、私は一手案じなければならなかった。
「……買って帰らないと、お仕置きされちゃうの」
「ん、何だって?」
服を脱がされて、お仕置きされちゃうの、とうつむいた私は本来の声音で、静かにそう繰り返した。私には家族などいないが、大人の持つ天秤はこの手の話にひどく振れやすいことを私は知っていたのだ。
「あーアクアを2パイントだったな。ほら、こぼすなよ」
誰が見ている訳でもない軒先から店内にまで届くような声を上げたのち、わざとらしくせき払いをした男は私から札をつかみ、望みどおりの小瓶を私の手にそっと握らせて言った。
このあと何を言い出すかなど、私にはすっかり分かっていたというのに。
「さっさと持って帰ってやりな。いいか、こんか――」
「ありがとう、おじさん。また来るね」
普段男にはあまり見せることのない恥じらいのある笑みを浮かべて、私は店主の小言を遮った。面倒ごとを抱え込まない程度の彼の優しさには、事実感謝してもいたからだ。
通りの外れで再びひとりになると、手に入れた小瓶をそろそろと揺すって眺めた。
満ち足りたように泥を被っては、うっとりとした表情で株に頬を預ける熊のイラストが描かれたラベルのその脇で、瓶の色に染められた蒸留酒がくぐもった光を放っているのが見える。
それを見ただけで、かつて毎日のように暗幕を垂らしたような養父の書斎に忍び込んでは、怪訝な舌をそこに浸していた頃の記憶が、口の中へと展がっていくのを感じた。
掘り出した木をそのまま煮出したような泥臭い風味、喉から内腑へと抜ける紛れのない熱の通り、そうして最後に上顎に残る、あのはらりとした甘い余韻。
我を失ったように呆然と頬を扇ぎながら、あのとき私は気付いたのだった。この世界には、誰に禁じられるまでもなく、私という存在を決して許すことのない輝きがあるということに。
それからも私は養父の書斎へと通い続けた。
あのときの私はきっと、私を拒むものばかりで美しく輝く世界にあって、仄暗い書斎でうっすらと光を放つあの純然たる輝きに、何か特別なものを感じ取っていたのだろう。
悠然とした時の流れを思わせる、あの琥珀が微睡み出したような輝きに。
そうやって記憶の小道を幾筋かたどっている間に、私の機嫌はすっかり直ってしまったらしい。栓も抜かないうちから、私はどこかで、この町に根を張ることができる自分というものを想像していたのだろう。ちょうど、そんな折だった。
私はふいに立ち止まり、後ろを振り返った。そこは、歩んできたブロックを大方見渡すことのできるなだらかな町の裏通りで、往来には変わることのない軽やかな町のムードが漂うだけで、私を立ち止まらせるようなものは見当たりはしなかったのだが。
「私を、つけているのか」
再び歩き始めた私は、程なくしてやはりあることに気がついた。この通りのどこかに、私の足音に重なるようにして路面を蹴るもうひとつの足音があることに気がついたのだ。




