6 場末の酒場 女神の記憶Ⅱ
「あれは、十二歳になった時だから、五年くらい前のことかな。近所のみんなで、森に行ってかくれんぼしてたの。よく知らない子も混じってたんだけど、わたしが鬼で、もうみんな見つけたはずなのに、どうしてかわたし、まだひとり足りないって思い込んじゃってて、少しだけ森の奥に行ったの。森はね、どこから神域に繋がってるか分からないから、町が見えなくなるところには絶対に入っちゃダメって言われてたんだけどね。なんていうんだろう、吸い寄せられるような感じっていうか、上りなのにすっごく体が軽くって、絶対この先に隠れてるって、変な自信もあって。気がついたら大きな泉のほとりにいたの。空気が冷たくて、見たことないくらい大きな泉だった。わたしね、急に怖くなったの。森の奥にこんな場所があるなんて、町の人は誰も言ってなかったから、来てはいけない場所に来たんだってやっと理解して、その場に座り込んで泣いちゃったの。そしたら、水面に突然大きな黒い影ができて、振り向いたら信じられないくらいおっきな猫がわたしのこと、じっと見てた」
泉よりも大きな、耳の垂れた猫、とニキは少女のように足を揺らしながら、そう呟いた。頬に朱は差しているが、それほど酔ってはいないらしい。
私はニキの足元を見つめ、彼女のかかとがサンダルから浮き上がる度にうっとりとした気持ちになった。
「怖くはなかったのか?」
「怖かったよ、そりゃあね。まったく音も立てずに現れたんだよ。あんなに大きいのに」
「その猫が神だと?」
「うん。一目見て思った。この辺りではね、昔話にもあるんだよ。悪い盗賊を食べちゃう、猫の神様の話」
私は何だか的の外れたことを口にしたくなった。何もこぼすまいと懸命に話してくれるニキのことを、少し邪魔したくなったのだ。
「しかし、女神だったということは、モノはついていなかったのか?」
「そんなとこ、わざわざ見ないよ。これから食べられるかもしれないっていうのに」
ニキはやはり少し不満そうな顔をした。こういう顔も、もっと見たいと私は素直に思った。
「今夜は今夜で、私に食べられてしまうかもしれないしな?」
「それは……フランちゃんがもうすこーし大人になったら、考えてあげなくもないけど?」
余裕を持ったニキの表情は、二人の間で揺れ動いていたイニシアティブがすでに私の元にはないということを意味していた。
そして私は、この請う側の劣後というものに満たされつつあるのだろう。カウンターに置かれた彼女の手に指を滑らせながら、私は続きを促した。
「それで、その猫はニキに何かしたのか?」
「ううん、何も。その場で伸びをして、すぐに寝ちゃったの。わたし、拍子抜けしちゃって。そしたらだんだん眠くなって、気付いたら神様のお腹にもたれて寝ちゃってた。すごくあったかかったんだ。もしかしたら、夢なのかなって思ったんだけど、夜になってね、目が覚めたの。その神様の声で。何だか、痛がってた。お腹を丸めて、苦しそうにしてた。わたしのせいかもしれないって思って、夜のあいだ、ずっとお腹をなでてあげたの。ごめんね、ごめんねって。泉のお水を飲んだら、不思議とお腹は空かなくて、そうやって一晩森で神様と過ごしたんだ。明け方にはまた寝ちゃってたみたいで、まぶしくて目が覚めた時には、わたしは神様の背中の上にいた。多分、歩いてたんだと思う。背骨が波を打っていて、何か別の生き物の上にいるみたいだった。それでね、だんだん町が見えてきたところで神様はわたしのこと、そろっと降ろしてくれたの。だからわたしも、言葉が通じないかもしれないから、ありがとうって、鼻のところをこう、顔でくしくししたの。そしたら、神様は口を開いて舌の上に大きな宝石をのせて、わたしにくれたんだ。でもわたし、『人間には、大きすぎるよ』って言っちゃった。だって、わたしの顔くらいあったんだもん。それで神様は一度その宝石を飲み込んで、口の中でもごもごしてから別の石をね、ぺってしてくれたの。今度は小さくて、わたしの小指の爪くらいのとってもキレイな石だった」
それがこれ、とニキは胸元の青い石を優しく掬い上げた。よくよく見れば少し歪な形をしてはいるが、思い入れのある原石となれば是非もないだろう。
それに、彼女の華奢なデコルテを慎ましく彩るには、またとない大きさと輝きだった。私はニキの仕草に見蕩れながら、手を翻した。
「ニキは、絵本作家にでもなった方がいいかもしれないな」
「やだ。わたし、絵心ないもん。それに今のお仕事だって、嫌いじゃないし」
「そうだったな。しかし――」
「『どうしてそれで、女神だと分かったのだ』って、フランちゃん言いたいんでしょ?」
私は目を細めてニキに同意した。彼女のしっとりと冷えた指の腹が私の口元に添えられた喜びもあるにはあるが、私は何より察しのいい女というものが好きだった。
そうしてニキは自らの指に絡みついた熱のある私の指を優しく解きながら、言葉を継いだ。
「それはね、お腹を痛がる神様の様子が、わたしのお母さんの姿に何だか似ていたの。今になって分かるんだけど、多分あれは、神様が女の子になったんだって思うの」
「女の子に、なった」
「うん。多分、そういうこと」
下腹部に目を向けた私の仕草に、ニキはゆっくりと頷いた。血のね、匂いがしたの、と静かに言葉を添えながら、彼女は泳ぐ私の指を背後から握り締めた。
体の奥底にうずんでいた死に水のようなあの溜り血の匂いを、そのとき私は静かに思い起こしていた。
ニキの話は、神の月事に立ち会った少女の話ともとれるし、少女と出会ったことで性徴を帯びた神の話とも受け取ることができた。
それが後者であったとするならば、神と行き会ったことで少女はどうなったのかを私は問わねばならなかった。
「それで。ニキはどうなった?」
「ううん、わたしは別に。今も普段どおりに来てるし。でも、来たのも分からないくらい軽いんだけどね。お母さんとは違うみたい」
「そうなのか」
私の感覚は今も彼女に包まれた手の内にあった。その緩やかな温もりのなかで、私はあの人を寄せ付けない黒い森の姿を思い浮かべていた。
私の旅の始まりに行き会ったあの大きな猫の神。そして今は既に旅立ったはずのあの雄の神は、どうやら必要なことを告げずに私の用意した穴ぐらをくぐり抜けてしまったらしい。
「どうやら私も、もう一度行かなくてはならないようね」
それは、手間を通り越して世話と呼ぶほかない私の独りよがりな思いつきだった。それでも、私はニキを通じてこの番の猫の存在に、十分に関わってしまっていた。
私はおそらく、ニキという過分な手付けが突如として私に支払われたその理由を、神に求めようとでもしているのだろう。
馬鹿げた話ではあるが、だからといって彼女をこのまま手放しで享けられるほど、私は自らの人生に理解がない訳ではなかった。
「ん、どうしたの?」
「すまない。こちらのことだ」
「そう? でも、ごめんね。なんだか変な話しちゃった」
「そんなことはない。こんなに素敵な夜があるなんて知らなかった」
「もう、またそんなこと言って」
「ニキの前で、嘘は吐きたくないんだ」
ニキのグラスが空くのを待って、私は席を立った。私の杯はすでに空いていた。この時間が終わろうとしていることを、どうしても彼女の口から聞きたくなかったのだ。
「……ねぇ、フラン。また、わたしに会いに来てくれる?」
振り返った私は、きっと上手く笑えなかったのだろう。
遊び疲れたような笑い皺を覗かせて、ニキは私を慰めるように微笑んだ。ゆっくりと目蓋を閉じる、そのほんのわずかな加減が、立ち尽くす私を息苦しくさせたとも知らずに。
こんなことなら、この瞳が朝を迎えるその時まで彼女を買ってしまえばよかったと、私は思った。そうしなかったからこそ、得られた夜だというのに。
「うん、きっと、会いに行く」
私は仕事を中断させたことを詫び、会計を持つと伝えたが、ニキは最後までそれを固辞した。
私たちはもう友達だもの、と言った彼女の声は別れた後もなお、どこか浮力を帯びた私の脳裏に甘く響き続けていた。




