5 場末の酒場 女神の記憶Ⅰ
「あーびっくりしたぁ。わたし、本当に女の子に抱かれちゃうんだって思った」
カウンターに促された女は着座するなり、そう言って頬を扇いでいた。仕事を離れたせいか、その表情は先ほどよりもずっと幼く見える。
夜が浅いこともあって店内は比較的空いてはいたが、店主は私たちを壁際のカウンターへと座らせた。
これから訪れるはずの、私たちを色や形でしか見分けられない男たちから遠ざけるためだろう。
見るべきもののない店内を見渡しながら、場末の酒場だと判じたのはいくらか不用意だったのかもしれないと、私は思った。
「そこまで強引なことはしないさ。それに、私をただの客として済ませようとする女であれば、少なくともここまで真剣に誘いはしなかった」
「そうかなぁ? すっごく本気の目をしてたけど」
「それはそうだろう。恥じらいながらも私の求めに応じる色があれば、今頃は二人で手を取り合ってシャワーを浴びているだろうからな」
「ふふ、まぁ、そうはならなかったけどね」
胸をなで下ろした風の女を横目に私は『磔刑』を頼み、女は少し迷ってから『流罪』を選んだ。苦味の強い酒は男の味を思い出すのだそうだ。
食事も勧めはしたが、仕事に支えるとのことでナッツやシャルキュトリで済ませることにした。
「わたしはニキ、あなたは?」
「フランソワーズ。フランでいい」
「フランちゃん。そっかぁ、フランちゃん」
私たちは軽く杯を掲げ、互いの名前を褒めあった。それは、女の名前を口にする喜びを得た瞬間でもあった。
「それで。どうしてわたしを見てたの?」
「ニキは可愛いと、ただ一言伝えたかった」
「やだぁ。そんなことないって、わたし知ってるよ?」
あしらいなれたニキの胸元では小さな石がそろそろと揺れていた。その慎ましさにさえ、私は好感を持った。
「いい女には、嘘を吐かないというのが家訓なんだ」
「あはは。でもそうやって、フランちゃんは他の『いい女』にも同じこと言ってるんでしょ?」
「さぁ、どうだったか。記憶力には、あまり自信がなくてな」
「へぇ、フランちゃんの周りには覚えていられないくらいそういう人がいるんだ?」
「せっかくの夜なんだ。そろそろ許してはくれないか?」
私はおどけて手を上げてみせた。この生活を選んで、初めて笑ったような気がした。
「さっきのお返しだよ。でもまぁ、今夜はそういうことにしといてあげる」
会話の切れ目を迎えると、私たちのあわいに揺れる静寂は、束の間店内のざわめきへと背を預けることになる。
ただそんな喧騒も、今の私にとってはニキの声だけが、この場で唯一の意味を持つ確かな調べなのだと知らせるアプローズのようなものだった。
しばらくしてニキは同じ質問を変奏させて私に問い直した。それは、私の瞳が彼女に投げかけてしまったひとつの主題でもあったのだろう。
「やっぱり、気になる? わたしのお仕事」
「気にならない、と言えば嘘になるだろうな」
どれだけの男に抱かれようと、ニキの放つ輝きは決して損なわれるものではないと伝えたかったが、私はそうは言わなかった。彼女の柔らかな瞳は、「わたしのことを取り違えないでほしい」と強く訴えていたからだ。
「男の人ってね、みんながみんな、わたしのこと、モノだと思ってる訳じゃないんだよ」
「そういう、ものなのか?」
「うん。宿に行くまでの途中にね、お話するの。男の人の、腕につかまりながら。その人がわたしに何を望んでいて、限られた時間をどういう風に過ごしたいか、とか、どうしてわたしのこと選んでくれたのか、とかね。ほんのちょっとだけど、相手のことが分かると、やっぱり応えてあげたくなるし、そういう気持ちでお仕事してるとね、相手もわたしのこと優しくしてくれるの。終わったあともね、抱きしめてくれたり、髪をそっと、なでてくれたり」
揺れ動くニキの表情には、やはりこちらの愛護心をくすぐるような、何か喚起的なものがあった。そしてそれを自覚していないということが、この女の何よりの武器なのだろうと私は思った。
「それは、ニキが優しいからだろう?」
「ううん、違うよ。ただのきれいごと。わたし自身が、傷つきたくないだけの、ね」
それでいてニキは、自身の仕事が必ずしも彼女を損なうものではないということを、自らの言葉で理解していた。
それは知性というよりは彼女のしなやかな感性がそうさせる話で、私はそれ以上問うべき言葉を失ってしまった。
「そうだとしても、私はニキのことがまた好きになった。男たちもきっと、そうなんだろう」
「ふふ。それはどうだろうね」
その後は杯を重ねながら、いくらか他愛のない話をした。
瞳の色や髪の手触りに始まり、耳の形や爪の大きさ、産毛の薄さや声の質感に至るまで、私たちは互いにないものをねだり、あるものを慰めあった。
それはどこまでも女性的な遊びで、私にとってはニキに触れ、ニキを見つめ続けることのできる幸福な時間でもあった。
互いの体をひとしきり愛撫しあった私たちの会話が、やがて彼女の胸元でさらさらと揺れる控えめな石へと及んだのは、ごく自然な流れだったのだろう。
赤みを帯び始めたニキの肌をなでるようにしてそれを掬い上げたとき、彼女の口から思いがけない言葉を耳にした。
「キレイでしょ、それ。神様からもらったんだよ。ロップウィルの、女神様」
私は一寸、言葉を失っていたらしい。私の水場に断りもなく集ろうとしたあの羽虫のような男の声が、不意に耳元で鳴ったような気がしたのだ。
とうに旅立ったはずの神の不在をわざわざこの私に報せようとする、間の抜けた男の声が。
「さすがにフランちゃんも、この話は信じないでしょ?」
そんなことはないと、私は遅れて首を振った。それから急にニキの頬に触れたくなって、私は言葉で彼女の気を引こうとした。
「ニキの言葉を信じられなければ、私はもう誰とも話すことはないさ」
「ほーんと、おませさんだよね。フランちゃんって。真顔でそんなこと言っちゃうんだから。そういうこと、一体どこで覚えてくるの?」
ニキは悪戯をした私の腕を柔らかな指で咎め、私は逃げようとして声を上げて笑う。
この夜の出会いのすべてが、私の幼さによって赦されていたということを私はよく理解していたが、それでも、私は満足だった。
そして満ち足りた時間だったからこそ、私は知りたくなったのだろう。ほかでもないニキの口から紡がれる、神にまつわる記憶というものを。
「よかったら、最後に聞かせてくれないか。その女神のことを」
「うん、いいよ」
ただ、私が今になって神の存在に興味を示したのは、必ずしも相手がニキだからというだけではなかった。
彼女の話すその神が、私が行き会ったところのそれとはおそらく別の存在であることを、このとき私は知ってしまったのだ。




