4 橋の袂の女
その日の夕刻、数週間分の精算を済ませた私は町へと下りることにした。酒を飲む以外これといった用はなかったが、契約の満期に伴って数日の暇を出されたのだ。
これで一度、人夫としての契約は切れた形にはなるが、「できるのなら、また続けて来てもらいたい」という雇い主の言葉が道中の私の胸を緩やかに満たしていた。
人を信じようとも、疑おうともしない、眼のなかに不思議な奥行きを忍ばせた寡黙な老人だった。
暮れ残る町並みへと向かう風は穏やかで、時折生活の匂いを掬い上げるような仕草で立ち止まっては、湯浴みを終えた私の肌を気の向くままになでていく。
つづらに折れた坂道を下りながら、私はこの苛烈な季節からつかの間の赦しを得たのだと風に囁かれているような気がした。
これまで仕事でいくどか通ったこの道がこうも新鮮に感じられるのは、人夫としての平服ではなく、旅装――厳密に言えば、それは家から持ち出したかつての普段着に過ぎなかったが――を選んだからだろう。
ぴったりと閉じた胸元にまで開いた大きな襟と、羽ばたいた鴨に差す羽色を模した揺らぎのある青いワンピースで、いかにも養父が選びそうな少女趣味の装いではあったものの、こうして袖を通すと、からりと日焼けした今の私の腕によくなじんでいた。
当時あわせて身に着けていた淡い色のシュシュも、肩にかかる程度にまで切り落とした今の髪には必要ないものだったが、腕輪の仔細を隠すのには適していた。素足を晒して歩く今の私には、昼間のあの男のような悪い虫がどこから湧いてくるのか、知れたものではなかったからだ。
町の高さにまで下りると、川の音に引き寄せられるようにして進み、やがて橋を望む川岸へと至った。
橋の向こうでは既に明かりが灯り始め、夜の訪れを祝うような人々の声が遠く響いていたのだが、私の目はいまだ川の手前にある橋の袂へと奪われたままだった。そこに無聊に身を任せたような娘がひとり、佇んでいたのだ。
同じワンピース姿ではあるが、月明かりを浴びに来たとでもいうようにざっくりと背や肩を露にした丈の短いそのドレスは、すらりと伸びた女の白い肢体を惜しみなく映し出していた。
私は立ち止まったまま、女を見つめていた。
着際に困ることのないシンプルな装いも、放恣な肌と控えめなボディーラインを夜の闇に淡く際立たせるはずのその佇まいも、つまりは女の生業に由来するものなのだろうと、いずれそのように合点したあとも、私は女を見つめ続けた。
過ぎ行く往来のなかで行きずりの女と出会うだけの理由を、どこかで求めていたのかもしれない。
そういうことだから、素知らぬ振りをしていた女がやがて諦めたように一度目を伏せたあとで私に微笑みかけたのは、言ってみればそれは、幸運な必然というものだったのだろう。
「はぁい。どうしたの?」
その笑顔に触れた瞬間、もう心は決まっていた。
自らの職業的な憂鬱を、私の幼さに絡めて笑おうとはしなかった目の前の街娼に、持て余すはずだったこの夜の自由をいっそ委ねてしまおうと、そう決めたのだ。
女の元へとまっすぐに向かい、すれ違う形で橋の欄干に手をかけると、彼女が振り返るのを待って、私はそっと話を切り出した。
「いくらだ?」
「……へ?」
「いくらだと、聞いたんだ」
威圧感を与えることがないように、私は女を見上げてからゆったりとした口調で問い直した。水の打つ音が近いからか、爪先へと伝う風は先ほどよりも涼しく感じられる。
私はどこかでそれを、ベッドに波を打つシーツの冷えた感触に重ねようとしているのかもしれなかった。
「えっと、それは、分かってるんだけど……」
女はどちらかと言えば、黙らせるよりも喋らせていた方が得をするような顔つきで、小動物を思わせる張りのある頬に薄くそばかすを散らしながら、困ったようにこちらに向けて微笑んでいた。
私は空目で女を窺うばかりでそれ以上は何も言わなかった。女に物を尋ねはしても、必ずしも答えを求めていたのではなかったからだ。
「あぁー、時間で、これくらい、かな?」
女は目を泳がせながら、やがて寝かせた両の手で異なる数字を指した。
酒場で男たちが話していた相場からすればごくごく妥当なもので、私はひとまずのところ安堵した。その仕草に私をあしらう素振りが見られなかったからだ。
しかし、そうなるとやはり、私はもう少し彼女を困らせたくなった。
「一晩なら?」
「え、えー……、うーん、答えちゃって、いいのかなぁ?」
うつむく度にはらはらとこぼれ落ちる髪を掻き上げながら、女は私など忘れてしまったようにいくどかうなっては目を閉じていた。情にせわしなく揺れる性質であるらしい。
思うにこの女の趣は、起伏に富んだその目元によく表れ出ていた。
私とは違って物悲しく垂れた瞳もいいが、厚ぼったい目蓋に刻まれた幾重もの薄い襞が、おそらく彼女が予期しない形で、その表情に滋味のある彩りを与えてもいたのだ。
疲れの出やすいその目元を女が気に入ることはないかもしれないが、彼女を買った男たちはきっと、この女と迎える朝の喜びを知ることはないだろうと、私はひそかに思った。
「ま、まぁ、これくらい、出してもらえばって感じ?」
今度は控えめながら、片方の指のすべてをこちらに差し出した。爪の切り揃えられた飾り気のないその柔らかな手指はしっとりと白く、私の好みに適うものだった。
「宿代は別途、というやつだな?」
「え、ええ、それは……まぁ、そう、なるかな?」
「そうか。では、決まりだ」
「ちょっ、ちょちょちょ、ちょおーっと待って! え? え? あの、もしかして、だけどさ……」
手首をつかまれた女は一度愛らしく体を震わせた上で、私を落ち着かせようと何度も両手をかざしてみせるものだから、こちらもできるだけ彼女の意に添うよう優しく微笑み返しておいた。
まったくこの世界には、素人らしい仕草がかえって購買意欲を掻き立ててしまうという不思議な仕事があるものだった。
「もしかして、その、わ、わたしのこと……買う、の?」
「ん、買わずにどうにかなるものなのか?」
「そ、それはまぁ、買ってもらわないと、困っちゃうけどぉ、でで、でも、お嬢ちゃんには、ちょおーっと早いっていうか、その、わたしにも、ほら、まだそういう経験は、ないっていうか……」
手をかけて結わえ上げた後ろ髪を精一杯揺らしながら、女はまだ決めかねているようだった。そうなると、私は客としてよりもまず、彼女によりそう者として振る舞う必要があるのだろう。
「何事にも初めてというものはある。それに普段どおりの仕事ができなければ、私に身を任せてくれるだけでいい。ここで立っているよりはきっと、いや、ここで立っていられなくなるくらいきっと、素晴らしい夜になる」
「な、何を言い出してるの? そそ、そんなの、ダメ。恥ずかしいよぉ」
「男には、あれこれできるのにか?」
「だ、だってぇ……」
あらぬ想像で慌てふためく女を尻目に、ここらが引き時だろうと私は察した。
彼女をこれ以上困らせるのは私の本意ではなかったし、これだけ潤いのある時間に対価が発生しないことに、そろそろ申し訳なく感じてもいたのだ。
「分かった。この話はひとまずここまでにしよう。まぁ、代わりと言っては何だが――」
逢引き宿が軒を連ねる一画に点在する場末の酒場をひとつ指差して、私は女に代案を示した。
「あそこで少し、付き合わないか?」
願いを手頃なものに思わせるには、予め吹っかけておくに越したことはない。要するに、私はただこの女と、酒が飲みたかったのだ。




