23 ロップウィルの霊猫Ⅱ
「ねぇ、あなたが私を呼んだの?」
目先を変えたくて私はそう尋ねた。
思わず元の口調で語りかけてしまったのは、私が得たささやかな失意を慰めるためのものだったのかもしれないが、今は相手が人でないだけ好都合だった。神や動物を前にして、人は繕う必要などないのだから。
私の声を聞いた猫は、ただ苛立ったように尻尾を台地へと打ちつけただけだった。
神話や小説では、これらの生き物は人の言葉を持つように描かれていたが、すべてがすべてそういう訳にはいかないらしい。
「まぁ。ご機嫌ななめなのね」
種としての可能性を遥かに凌駕した特異な実在性を帯びるに至った個体のことを、我々は古くから「Deus(神)」、あるいは「Deus quatenus(限りの神)」などと呼ぶが、私が相対したこの初めての神的存在は、おそらく神格としては、それほど高位なものではないのだろう。
できるのなら、悠久とも言える時を渡り歩いてきた彼らなりの感情や感慨に触れてみたいと思っていたが、これも望み過ぎということだろう。
「……de(…せ)」
そういう訳だから、やがて猫が喉を震わせて呻くように歪な声を上げたとき、私はただ黙って相手を見つめていた。それが私に向けられた発話だとは、考えもしなかったのだ。
「Redde(返せ)」
「……Quid?(何を)」
「Memoriam meam(私の記憶を)」
「Quid dicis?(どういうこと)」
霊猫が口にしたのは、我々が古くから魔術を詠唱する場合などに用いる、共通言語と呼ばれるものだった。
そもそも詠唱というのが術に不案内な者が頼るよすがのようなものだから、私は別段この言語になじみはないが、名のある神々が神話に謳われるように、かつて滅びた旧人類の時代から生きていたのだとすれば、神と同じ言語を持ち合わせていることに特別な感慨が湧いてくるようでもあり、私はこの猫との出会い頭に得た昂揚をもう一度手にしようとしていた。
「Habes odorem illius feminae(お前から、あの女の匂いがする)」
「Illa femina?(あの女)」
「Femina, quae mihi memoriam privavit. Illa admodum mea possesio est. Quae testimonium meae vitae est. Redde, redde, redde……(私から記憶を奪った女。あれは、私のものだ。私の、生きた証。返せ。返せ。返せ……)」
失意と怨嗟を混ぜ返したような熱れた敵意が台地を満たしていた夜気をたちどころに翻していく。
森も、風も、星も、すべてが神の気分に統べられているかのようにざわめき、猛り、瞬いていた。それも人の子がひとり、この場に居合わせてしまったがために。
「憐れなものね」
額を打ちつける風を遊ばせたまま、私はそう呟いた。
気分ひとつで世界を変えてしまうだけの力を持ちながら、あの猫は自らを安んじることができずにいる。あれだけのものをひと息に満たしておきながら、自らの内にあるたった幾許かの空隙に耐えることができずにいる。
「まるで、私と同じ」
私を斜に見据え、全身に力を湛えた霊猫の身体は黒く染まり、辺りには怒りが身体を蝕んだあとの蝕のような胡乱な輝きが漂っている。
ぐわん、ぐわんと、それが怪しく揺れる度に森の台地は色を失い、その息吹をただ神にへと委ねようとしていた。
私はそんな光景に見覚えがあった。それも、そう遠くない過去において。
「そうね、これが土地を統べる者との戦い、だったわね」
イルニアの王がそうしたように、王は平時においては国土を守護し、有事においてはその国土が育んだ途方もない魔力をその身に宿して戦うことになる。
彼らは土地を領するに当たり、自らの血に由来する「杭」を打つことで、己の身体と国土とを繋ぎ合わせているのだ。
だからこそ王はあのとき、自らの腕を断つことで国土を割譲したのだろうし、そしておそらく王の国土に対する関係は、神と自然との関係におけるこうした営みを源流としているに違いなかった。
「だとしたら、私はまた頼らないといけないのね。この力に」
私を磔にでもしようとする温く湿った風に抗うように、私は前へと進み出した。
目に映るものすべてが、私を疎外するために生まれたような新たな世界へと向かって。
じじ、じじじと、私を包む大気は羽虫が舞うように震え、私が歩く度に、神が踏みしめたあとの硬く冷たい大地は歪み、重く乾いた音を立てた。
そうして私は、私心に憑りつかれた神を挫くまでのその間、どうしてこれだけの力が訳もなく私を訪れることになったのか、ただそのことだけを考えていた。




