22 ロップウィルの霊猫Ⅰ
カーズ・ヴィードの果てにある解れを渡り終えたと感じたのは、緩やかな勾配の中で夜の下草を踏みつける柔らかな感触を足の裏で得たからだった。
かたかたと音を立てて振れ出したキャリーバッグにいくらか力を込め、すでに私を包んでいるはずの新たな世界の手触りを求めて空いた手を前へと伸ばしながら歩いたが、それはすぐにでも私に与えられることになった。
何かの強張った毛の質感が強い熱を放ちながら、独特な臭気の中でしっとりと濡れていた。
頬を寄せるほど手を回したところで、何ら輪郭がつかめないほどの何か大きな生き物の懐にいると理解したのは、翳した手が一定の周期を保ちながら、大きく押し返されては吸い込まれていく、あの生けるものの律動に、私が際しているからだった。
ややあって微かな薄明かりが注がれたのを感じ、空を見上げた。そして月のように豊かな丸みを帯びたふたつの輝きをそこに認めた。
私へと迫り出したようなその球面には、それ自身が自壊してしまうほどの大きな筋が走り、どこまでも胡乱な輝きでもって、私をそっと照らし出していた。
それに照らされたまま、私はしばらくの間動くことができなかった。怖れからではない。
この新たな世界が――自ら選び取ることのできた唯一の、この新たな世界が――、まるで得体の知れないたったひとつの生き物の律動と佇まいによって始まり、また形づくられようとしている事実に、私は震えていたのだ。
私の手を離れた世界は何と豊かで、また何と崇高なことだろう。そう、私の心は打ち震えているのだった。
だからだろう。動物たちが彼らなりの検分と忍耐の末に突如として振りかざす、あの暴力的な仕草に気がつくまでに、私はすでに遅れを取っていた。
「ちっ」
私を辺りの木ごとなぎ払おうとしたその爪を飛び上がってかわすと、私は舞い落ちる空の下で私の旅行かばんが早くも足をひとつ失ってしまったことに気付いたのだった。
官能に費やした時間の代償と言えばそうだろうが、それでも私はこの新たな世界がたちどころに私を苛立たせたことに安堵してもいた。
ここはやはり、私の手を離れた現実なのだと、そう信じることができたからだ。
「あれが、神というものか」
こうして十分に距離を置いて眺めると、あれがどうしようもなく大きな猫で――今はちょうど、隣の山に足をかけて体を伸ばしているところだ――、相手が初めから肌を刺すような敵意をまとっていたことがよく視える。
丸みを帯びたなだらかな岩山に囲まれながらも、私を包む森は黒々とした夜気をなびかせ、鬱蒼と広がっていた。ここはきっと、人を寄せ付けぬほど豊かで、深い森なのだろう。
冷たく不穏な風が吹き抜けるその度に、森は私を匿うつもりなどさらさらないとでもいうようにざわめきだっていた。
額を打ち付ける髪をかき分けながら、それでいい、と私は自分に言った。私は何も、期待に胸を弾ませてページを繰ったのではない。
ただ自らの手でページを繰ることだけが、私の願ったすべてなのだ。たとえそれが、異国の神の不興をわざわざ買うことになるのだとしても。
付近で一番大きな糸杉にかばんを預けてしまうと、私は再び猫の視界の隅へとちらつくように駆け出した。どのみち猫は私を放っておきはしないと知っていたからだ。
ある日のことだ。庭先でイザベラが悲鳴を上げたことがあった。近所に出入りする猫が、彼女が最も忌避する黒い虫の屍骸を庭石に残していったのだ。
それは、まだ食べしろのある身だけを綺麗に欠いた、羽と六つの足を標本のように器用に並べたもので、私は感心したようにそれを眺めたことを覚えている。
つまり、彼らはよく遊び、割と何でも食べ、そしてこそこそ動くものに反応したがる好奇心の旺盛な生き物だということだ。
やがて咆哮があった。猫のものというよりは、山々に囲まれたこの台地状の森そのものが、壮大ないびきとともに寝返りを打ったような激しい鳴動だった。
そして分厚い空気の層が私の全身を押し返すように過ぎ抜け、私が逆立った前髪に手を添えようとしたときにはもう、猫は私との距離をすっかり詰め終えていた。
目に付いた岩場に飛び移ると、私は振り下ろされた爪の鋭い軌跡へと交差するように、空へと足を振り上げた。
靴の裏に無機質な感触が伝うと、すぐに濃密な土の匂いが過ぎ、私のオーバースカートのスリットを勢いよく翻していった。町娘の前掛けに憧れて、私がこの春にねだったものだ。
猫は私から得た反発を上背で撓らせてしまうと、そのまま浮き上がった両手を私目がけて叩き付けた。
そして薄氷のように砕け散った岩の破片もろとも私が飛び上がるの見ると、今度は狙いすましたように雄叫びを上げ、宙にいる私へと飛礫を吹きかけたのだった。
ただじゃれているのかと思っていたが、案外知恵が回るらしい。
私は顔を側面に向けて、不快でふさいでいた耳から離した手を翳し、破片をカーズ・ヴィードへと吸い込ませた。
これだけの石を持ち帰ってやれば、考古学者である養父はきっと目を輝かせて喜ぶに違いない。そう思ったところで、はっとなった。
そうして振った首に、いつもの感触が伴わないことを、胸が窄むような思いで知ったのだった。そうだ。私は今日という日まで大切に伸ばしてきたあの長い髪を、自らの手で払ったばかりなのだと。
この新しい現実になじむまでにはきっと、こうした思い違いをあと何度も繰り返すのだろう。
鳴き終えてひと欠伸する猫を遠目に見やりながら、私はそんなことを思っていた。




