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フラン・ロイスダールの逃走  作者: みかげ石
第二章 逆戻しの旅路
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21 カーズ・ヴィードⅢ

「さっきから何がそんなに可笑しい」

「いや、俺が思ってた以上に可愛いところがあるんだなって、そう思っただけさ」


 そう言って、男は私の頬を(つま)み上げるようにして(もてあそ)んだ。

 私としては男に何を言われ、また何をされたところでさして動じることもないが――これは繰り返し私の体を求めたあの女が、私の年頃に特有な、あの雨季のような恥じらいをひと息に吹き飛ばしてしまったからだろうが――、心にしまってあるものを欠片(かけら)ばかり取り出して相手に見せるとなると、同じようにはいかないらしい。

 今の私は、どこにでもいる歳なりの少女と、何も変わりはしないのだ。

 

 頬を引かれた私はだらしなく口を開けたまま、静かに笑った。こうして誰かを得なければ、私たちはきっと、自分のことさえ満足に知ることはないのかもしれない、と。


「まぁ、そんなことはいい。私があの二匹を引き合いに出したのは、私の統べる空間に(ほころ)びがあると、私が知ることになったからだ。さっきも話したように、あの空間はあくまでよく出来た仮設の空間なんだ。現実とは違う。それなのに、二匹はあの場で生き続けることができた。それはつまりだ」


「お前の生み出した空間が、どこか現実の世界に繋がっていたということか?」


「あぁ、結論から言えばな。それを知って私は震えたよ。でも、あの二匹がいる間は、私は見守ることに決めていた。彼女たちが私の前に現れなくなって一月待ったあとで、私はようやくその綻びの在り処を探ることにしたんだ。壁を穿ち、部屋の外に出てしまうと、再び元の暗闇が姿を現したのだが、私はそのときカーズ・ヴィードが私の知らないところで拡がり続けていたことを知った。初めは私の部屋くらいの奥行きしかなかったはずなのに、歩いても、歩いても、その果てを見出すことはできなかった。そこはもう、私の心を愉しませるだけの誘惑的な暗がりではなくなっていたのだ。私はそこで、百歩歩くごとに番号と部屋への方角を示したメルクマールを設えて先へ、先へと進むことにした。東西南北それぞれに――と言っても、それは私の方向感覚に過ぎないものだったが――百番目の印を設け、その日は北端の標から西端の標へと弧を描くように歩いていたときだった。不意に木々のざわめきが聞こえたような気がしたんだ。気配のする方へもう少し近づくと、次第にそれが木々を打ちつける雨の音だと判った」


 私はそこで急に話すのを止めてしまった。まるで役者が不意に舞台の上で科白を飛ばしてしまったような、ばつの悪さを感じながら。

 だが、話の渦中にいる男にはそれも私の間合いだと受け止められたようだ。


「進んだのか、その先に?」

「いいや、傘は持っていなかったからな」

「傘くらい、何とかなるだろう」

「そこが現実の世界なら、役には立たないさ。それに私には直感があった。これ以上踏み出せば、おそらくはもう帰れないだろうとね」

「どうして、蜂たちは出入りしてたじゃないか?」


 男はどうしてもかつての私をその先へと歩ませたかったのだろう。

 話伽はなしとぎを聞かされてかえって目が冴えた子どものように、男の目は私が目にすることのなかった景色を求めてさまよっているようだった。

 ただその問いかけは、私にはいくらか繊細なニュアンスをはらんでいた。

 

 私は確かに外へ出ることを望んでいた。自分の部屋ではない、どこか別の場所へ。

 あの二匹の姉妹が私に知らせようとした最初の喜びとは、まさしく私が知ることのない世界への新たな可能性だったはずだ。それなのに、私はどこかでそのことを怖れてもいた。

 

 カーズ・ヴィードは誰も立ち入ることのできない私の安らぎの場であるとともに、私の手に(かな)うものだけが叶えられる小さな世界だった。

 もしもそれが、私が心から願うものを叶えてしまうような場所になっていたのだとすれば、私の願いによって繋がった新たな世界のことを、私は現実と呼ぶことができるだろうか。

 

 私が長い時間をかけて自分にできることとそうでないことを染み渡らせてきたこの身体が、突如として私の知らなかった曲芸じみた軌跡を描き出すのだとすれば、私はこの身体を自分のものだと認めることができるだろうか。


 あのとき私が感じていたのは、つまりはそういうことだった。これ以上踏み出せば、私が私であることができないと、そう直感していたのだった。


「すまない。その辺りのことは、上手く口にすることができないんだ。ただ怖かったとしか言えないな」

「いいさ。別に、謝ることじゃないだろ」


 男は何も気にしてはいないというように私の目を(のぞ)き込んで笑っていたが、私は男ほどには笑えなかった。

 私の心は絶えず言葉を求めてさまよっているのだろうが、そこで私が得た言葉というのは誰かと込み入った話をするためのものではなかったということに、私はこの長い語らいの中で十分に気付かされたのだろう。私はいつだって、私のための語り手でしかなかったのだ。

 

 それでも、私がこうして語り続けていられるのは、男が私の聞き手としては優れていたからだった。少なくとも私は、養父に対してこのような言葉を持ち合わせることはなかった。


「ただこれで、お前の知りたかったことをようやく話してやれる。それから一年ほど経って、まぁ、私が軍に引き抜かれて退役したあとということだが、私は今度こそカーズ・ヴィードの果てにある綻びを自分の意思で(くぐ)り抜けた。今からおよそ三週間前のことだ。つまりはそれが――」



 単調な山道が続いていた登りから、狭く分け入るような小道の下りを過ぎてしまうと、私たちはふいに開かれた視界に虚を()かれたように立ち止まった。深く緑の映える森と静けさを湛えた泉が一面、私たちを迎え入れるように現れたのだ。


「話の腰を折ってすまないが、これでようやく荷が軽くなりそうだ」

「是非そうしてくれ。私ももう、酒を飲むまでは二度と喋りたくない気分なんでな」


 力に頼らない生身の生活がこうもうんざりするものだと知ったのは、家出を果たした私の最初の収穫だったが、第二の収穫とも言うべき慰めが男のリュックには収められている。

 それを知る男の顔が誇らしげなのは気に食わないが、佳境を迎えようとしている私の話がこの先どう転ぶかはあとは男の振舞い如何(いかん)なのだ。


「お前は何か手伝おうという気持ちがないのか。こら、聞いてるのか、フラン」


 それを知るからこそ、神の面前とも言える泉の畔で男から奪った酒瓶を口に宛てながら寝そべった私は何を言うでもなく、荷を開き始めた男の姿をただ漫然と見守っていた。

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