20 カーズ・ヴィードⅡ
優に一月分は使役したような喉を一息に潤してしまうと、男を待つ間、私は放念したように振り返っては眼下を望んだ。
あの埃っぽい町が、木々や山肌に遮られながらもまだ小さく見切れている。
まだ町が見えるということは、もしかしたらこの辺りにまで町の子どもたちは親の目を盗んでは足を伸ばしていたのかもしれないし、あるいは今もそうかもしれない。
私は幼い頃のニキの姿を思い浮かべながら、自分にもあの頃から外の世界に触れることができたなら、私の五感にだけ支えられたカーズ・ヴィードがあそこまで確かな手触りをもって私に現前することはなかったのだろうと、そんなことを思っていた。
なまじ私の半可な願いを叶えてしまうからこそ、私が叶えられないものをかえって強く照射させることになった、あの哀しくも温かい空間のことを。
「もうじき町も見えなくなる。段々シダが増えてきただろう? このまましばらく登れば、そのうち泉が姿を現すんだ。そうなれば、そこは『パエヌルティマ』、つまりは神の、『一歩手前』だ」
いつしか私と並んで町を見下ろしていた男が、そんな言葉とともにやがて前に向き直った。
折よく吹き煽った風がせめて男の赤茶けた地毛を揺らしたのならもう少し見れる仕草だったものをと、バゲットを揺らす男の陽気な背を、私は惜しむでもなく見つめていた。
「ある日のことだ。私はお気に入りの作家の新刊とティーセットを持ち込んでカーズ・ヴィードのソファに寝そべっていたんだ。あそこなら、パンツを見せて足を揺らしていても『はしたない』と叱られることもないし、紅茶やマフィンを溢したところで自分で手入れできるからな。おまけに、調子外れの鼻歌を奏でたところで、誰も不快にさせることがないときている」
「いいなそれ。俺にも一室用意してもらいたいくらいだ」
「できない相談だな。私が強く望まないことには、役者を欠いた舞台のように滑稽なものにしか映らないだろう。まぁ、役者がニキならば、白亜の城のひとつやふたつ訳もないかもしれないが」
「俺じゃあ不足ってことらしいが、それなら一昨日のアレはなんだ。あれだって騙されるくらいよく出来てたぜ?」
「簡単な話だろう? あれは、私が強く望んだからだ」
「あぁ、そうかい。分かった、分かった。続けてくれ」
あの夜以来、私は男の顔が歪むことに小さな喜びを覚えるようになっていた。
手を投げ出して私の帽子を揺らす男を見ていると、なるほど旅はこれまで知らなかった一面を覗かせてくれるものだと、私は密かに感じ入るものがあった。
「これはいくらか余談になるだろうが、あれほど読書に適した空間もなくてな。私はあそこで得たイメージや読後感というものを、片端から具現化させていった。まぁ、実際には心を過ぎたものが勝手に姿かたちをまとったという方が適切かもしれないが。これは、言ってみれば具象的な再現から抽象的な再現へと私の関心が移ったということだ。私はそこで言葉の持つ刺激がいかに崇高なもので、また同時にいかに微に入り細を穿つものであるかを知ったように思う。それに私を驚かせたのは、たとえ何かを理解したつもりでいても、人はあくまでも間に合わせのイメージで生きているということだ。すでに読んだ本を読み返したときなどは、一度目に得たイメージとはまた違った感情がだな……、といっても、お前もそんな話に興味はないか」
「そんなことはないさ。どうぞ」
男は数歩進んでから私に手を差し伸べ、足下に隆起した木の根を跨がせようとした。
首を傾げて微笑むその顔は、この話をイザベラに熱弁したときと同じものだ。ふたりとも、私が何かに真剣になることが可笑しいらしい。
私はいくらか澄ました顔をして男の指先を摘み、根を踏みしめてから男の隣へと跳んだ。
「いずれにせよ、私の空間に変化が現れたのはその頃だ。あるとき、何かが私のスカートの裾から飛び立つのを見たんだ。明かりを強くして目を凝らすと、それは一匹の小さな蜂だった。服に付いた虫を連れ込んだのかとそのときは思ったが、そうではなかった。何日か遊ばせておくと、それはもう一匹、別の蜂を連れてきたんだ。これには驚いたよ。それまでいろいろなものが、それこそ姿のない感情やムードさえ色や形をまとって現れてはいたが、生き物が現れることなんてとうとうなかったからな。私は慌てて養父の書斎から、図鑑を持ち出した。二匹は私のことをとても警戒していたが、二週間ほど経つと、私のことなど忘れてしまったかのように振る舞い出した。それで分かったんだ。二匹が、別の種類の雌の蜂だってことがな」
私はその後も蜂の話を掻い摘んで男に聞かせた。
二匹にそれぞれ名前を付けたこと。その巣作りのために立ち木と草むら、柔らかな日差しと暖かな土、それから彼女たちが好むサイズの水場を部屋の一角に用意して、彼女たちの営みを遠くから見守ったこと。
やがてふたりが木に穿たれた小さな穴にそれぞれ巣を設け、忙しく出入りを繰り返したり、持ち帰った枝葉で巣を彩ったり、隠したり、空で遊び合う日もあれば、互いの巣を行き交う姿まで目にしたりと、気がつけば私は、ふたりに関するとりとめもない話を思い起こすままに男に聞かせていた。だからだろう。
「お前さ、人夫なんかしないで何か作家にでもなった方がいいんじゃないか? その空間魔術を使ってさ」
「馬鹿を言うな。自分の感情を切り売りしろというのか?」
「でもお前は、そうやって世に生まれた作品に触れてきたんだろう?」
「それはそうだが、私の得た感情は、何であれ私だけのものだ」
「そういう潔癖なところがあるよな、お前には」
「若いのさ。私はな」
呆れたように眉を上げてから、男は私の頭に手を置いた。
実際私は、そうされることが似つかわしいほどに自分は子どもだと感じていた。私は夢中だったのだろう。私の手による空間を忙しなく飛び回る二匹の生活というものに。あるいは、ふたりのあまりに短いその生涯に。
そして今だって、私の目をひとときの間奪い続けた彼女たちの小さな命の軌跡を、誰かに聞いてもらわずにはいられないほど、私の心はさざめいていたのだ。
男が見透かしたように笑うのは無理もないことだったが、だからといってこのまま黙っていられる私でもなかった。




