17 男の去った部屋で
これまで心の内で一体どれだけの言葉を並べ立てたかは知らないが、それをいざ文字に起こすとなると、想像以上に精神を放出させるものだと、あのとき私は知った。
黙って立ち去ることもできたはずなのに、そうしなかったのは最後まで養父の気を引きたかったのか、それとも傷つけたかったのか。おそらくは、その両方だろう。
あの夜、時間をかけて用意した書き置きを残し、私は階下の戸口からそっと裏庭に出たのだった。
雲間から覗く頼りない月明かりを受けて、養父の庭園は鈍く沈んだような光を静かに放っていたことを覚えている。
二階にある、あのそよとも揺れない重苦しい窓掛けの隙間からは、微かに灯かりがこぼれているのが見えた。養父はまだ書斎にいたのだろう。
すでに何かをやり遂げてしまったような心地よい痺れが残る腕でシュシュを解いてしまうと、私の長い髪がぱたぱたと音を立てて背を打ちつけていくのが分かった。
愛着のあるこの感触が再び私を訪れるには、この先どれだけの時間が必要になるだろうかと、あのときの私はそんなことを思ったはずだった。
項が隠れる程度の長さで髪を束ねて握ると、私は昼の内に砥いでおいたキッチンナイフでゆっくりと髪を割いていった。
それは、私がこの家を去るための最後の仕事だと自ら任じていたことだった。
灰を被ったように鈍く輝くことしか知らない私の髪を、誰よりも愛した養父の元を自ら去るのであれば、その愛を強く享けてきたこの髪を、旅に連れていく訳にはいかなかった。
ナイフを滑らせるにつれて、手に伝う緊張は次第に力を失い、その度に頭皮には鋭い痛みが伝っていく。
私はこの取り返しのつかない痛みの中で、養父の思いを損ねていくような、確かな手触りを得ていたのだろう。
もうすぐにでも訪れるはずの未来への高鳴りは消え失せ、私は、私が断ち切ろうとしているこれまでの生活の重さを、手のひらで感じていた。
私には、こんなことができてしまうのだと、自らに言い聞かせながら。
断ち切った髪が風を受けてはらはらと夜の裏庭を舞う姿を想っていたはずなのに、いつも湿りがちな私の髪は、こんな時でさえ湯がいて絡み合った乾麺のようにただ細い束をなして、情緒もなく私の体を掠めていくだけだった。
それでも養父はこの髪をこそ、愛してくれたのだった。私には何ひとつ気に入るところがなかったものだというのに。
「お父様、ごめんなさい」
私の視界を遮るほどの生垣に手を添えながら、異界へと繋がる渡りをつけた私は最後に養父の部屋を見上げていた。
振り返るとき、不意に窓辺が揺れたような気がしたのは私の思い過ごしだったのか。それともそうあってほしいと私が望んでいたからなのか。
私は今もそのことを考えあぐねている――
私はどこか、覚えのない部屋で養父の元を去った夜のことを思い返していた。
自分がどこにいるのかも分からずに、ただ去りがたい記憶ばかりが訳もなく鮮明に思い返されるのは、私が夢を見ていたからか、それとも私の思考が今もその周縁を渡り歩いているからなのだろう。
もしくは夢そのものというよりも、現実に起きたことがただ目蓋の裏で反復されていくような、そんな意識的な眠りのさなかに私はいたのかもしれない。
岸辺を求める眠りが錨を沈めていくようなこの時間が私に訪れるとき、それは決まって私が見ていたいものよりは、私が忘れてしまいたいものの方をたやすく私に思い起こさせた。
といっても、私はそれを憾みに思っているのではない。
もしも眠りが、その最後の雫まで甘美で香しいものであったのなら、どうして人はままならない現実に向けて再び目を開く必要があるだろうかと、そう思うからだ……
男の去った部屋でやがて眠りから覚めた私は、切れ残った微睡の糸に何度か引き寄せられながらも、浮力を帯びた体だけは浅瀬へと緩やかに押し返されていくような、あの物憂い痺れと揺らぎのあわいにただ身を任せていた。
私を浸していた浅い眠りは、私の中に浸かりきっていないこの数週間の生活を、いまだ偶有的なものと見なしているのだろう。
私は不意に映し出された男の部屋がどこかぎこちない、奇異な印象を与えることをぼんやりと思っていたが、それはきっとこの眠りが出し抜けに私の近況を覆い隠してしまったからなのだと、私は思った。
おそらく夢は、私の意識の中で不本意に結ばれてしまった幾多の思いの糸が、今なお複雑に絡まりあったままであると、そう言いたいのだ。
それを解きほぐすでも、忘れさせるでもなく、ただ今もそこにあるのだと。
そうだとすると、夢が無秩序に語りかけるのは、私の中にこそ秩序を欠いた何かがあることを伝えるためにほかならなかった。
「もういいだろう?」
誰にともなくそう呟くと、開け放たれた窓から吹き込む風を受けたくなって、私はベッドの上で膝を立てた。毛布と素足の隙間から私の熱で倦んだ空気が解き放たれていくのを感じる。
やがて毛布が耐えかねたようにベッドから滑り落ちてしまうと、日の名残の最後の輝きが、私の小高い丘陵を美しく捉えているのが見えた。
階下から騒がしい声と物音が聞こえる。私の走らせた御用聞きがやっと帰ってきたのだろう。私は喉の渇きを覚え、脇にあるサイドテーブルへと手を伸ばした。
ひんやりと硬い瓶の感触を得てしまうと、私はそれを引き寄せ、そのまま口をつけた。このあとの男の顔が浮かびはしたが、あとはもう、何をするのも面倒だった。




