13 ぶどう酒と罪過Ⅰ
目を覚ましたとき、私を包む夜具から男のものと思われる匂いを感じて、私はおおよその事の経緯を察していた。
もう一度目を開けるべきかどうか考えたが、男はすぐに私の呼吸が寝息を失ったことに気付いたようだった。それだけ静かな部屋だったのだろう。
「気がついたか」
「私に、何をした」
起き抜けにすぐにでも失われていく夢の残滓を拾い留めるようにして私は、私が損ねた男の額を、腹部を、そして最後に私が裂いた男の頬のことを思い返していた。
私が問うべきことはもっと別にあったが、今は自分のしたことを顧みるだけの時間が欲しかった。
「何も。強いて言うなら、路地裏で倒れたお前を宿に運んだことくらいさ。それ以外は何もしていないし、どこにも触れちゃいない」
こちらに向けて立ち上がった男は両手を掲げて乾いた笑みを浮かべていた。頬にガーゼが貼られていたが、どこかを庇うような表情や仕草は特に見受けられなかった。
私が思っていたよりも案外丈夫な造りなのかもしれないし、あるいは私とは違って、治癒の術くらいは心得ているのかもしれない。
私は宛がわれた枕を背当てにして体を起こし、軽く反らせた。なるほど左胸にはこの夜に得た煙草の張りが伝わり、シーツに滑らせた足からは、あまり趣味のよくない男の財布がわずかにしなる感触があった。
太腿のナイフだけは別途枕元に添えられてはいたが、これらはいずれも、男が今なお私に他意を持ち合わせていないことを物語っていた。
「何か、要るものはあるか?」
「……何でもいい。酒を頼めないか」
「分かった。少し、待ってろ」
この男に酒を求めるのは二度目のことだ。同じ数だけ私に付きまとったことを思えば、男の罪過はこれで棒引きだろう。
そして私には、私の罪過というものがあった。
「お前には、すまないことをした」
「……フラン、腹は減っているか?」
私の髪が服を擦る音を聞いただけで男は扉に顔を預けたまま小さく頷き、部屋を出た。
私は男の毛布を手繰り寄せ、その匂いを嗅いだ。
部屋の片隅にある机には、男に手渡されたあのマグといくつかの試験紙が残されていたが、もうそのことに嫌悪を覚えないくらいには、男の匂いに慣れてしまったらしい。
ここで男との出会いをやり直すのなら、それも仕方のないことかもしれないと私は思った。
「では、卿の生還でも祝して」
「……お前にだけは、言われたくないがな」
男が持ってきたのは、瓶詰めのぶどう酒二本と簡素な軽食だった。
手渡されたぶどう酒は、わざわざ薄く氷を張らせたデカンタに移し替えてからグラスに注ぎ直されたもので、男はその後枕元のナイフを使ってバゲットとチーズを丁寧に切り分けてまず私に与えた。
随分まめな男だと思い、黙って見ていた私は労いも兼ねて小さく先の音頭を取ったのではあるが、男を見ている限りでは、生き永らえたあとの一杯に特別な感慨を抱いている訳でもないようだった。
「餌付けが趣味なのか?」
「あぁ、挨拶の次にな」
とうとう私に慣れた様子で事もなくそう言い放った男を見て私は思わず笑った。こちらに殺意がなかったと知られた今ではもう、脅しの類はそうそう通用するまい。
そして、この男を諦めさせることに関して詮が尽きたとなると、今度ばかりは私が諦める番だった。
「私は明日、神域へと発つ」
「そこで、何をするつもりだ」
「ただの私用だ。そこまで話すつもりはない」
「……ひょっとして、ニキちゃんのことか?」
「貴様、どこから……」
「おっと、勘違いしないでくれよ。言っとくが、先にあの店で飲んでたのは俺の方なんだぜ。まさか、それも知らなかったのか?」
男は皮肉混じりに尋ねたかもしれないが、私は自分の知りたいことだけを問うに留めた。男というものに対する私の不注意は、何も今に始まったことではないのだ。
「知っているのか、ニキのことを」
「いいや。後から来た客に聞いただけさ。特別美人じゃないが、この町ではそこそこ人気の女だってな」
「私より先に手を出したら、地の果てまで追いかけてお前がぶら提げているその情けないものを見るも無残な姿にしてやるからな」
「心配ないさ。俺には俺で、目当ての女がいるんだ」
「お前たちの尻尾は、そうは言いながら別の女にたやすく振れるものだろう?」
犬より見境がないからな、とまで私が申し添えたからだろう。
男はやおら手を挙げて、宣誓のポーズを取り始めた。失われた彼らの矜持を取り戻そうとでもするようにだ。
「よし、じゃあ、誓ってやる。俺はニキちゃんに生涯に渡って何もしないことを、ここに誓う」
「なら、ちゃん付けもやめろ。不愉快だ」
「分かった。俺はこの地の神に誓って、ニキに死ぬまで何もしない」
「……いいだろう」
男に免じて頷いた私はそれぞれのグラスに酒を注ぎ、空いた瓶を手渡すと、男も男で意を得たとばかりに勇んで階下に酒を取りに行った。
ほどなく酒瓶を手に戻ってきた嬉しそうな男を見ていると、わざわざ好んで犬を手懐ける者の気持ちが、少しは分かったような気がした。




