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フラン・ロイスダールの逃走  作者: みかげ石
第一章 私が男と眠るまで
12/27

12 私を包む暗がりⅢ

 かつての所属において、女は私の直属の上官だった。

 

 何か特殊な身分を有していたらしく、階級の割に軍においても相応に自由の利く、気ままな女だった。女は私的な時間ほど私を手元に置くことに拘り、自ら立案した作戦を、「眠りにつく準備」と呼んだ。「フラン、眠りにつく準備をしましょう」と。

 

 その表現が隠喩でないことは直に知れた。事が終わると、女は必ず私をベッドに呼びつけたからだ。それが朝であれ、夜であれ、私は言われるままに女と床に就いた。着衣は、決まって私自身の手で外されることを女は望んだ。

 

 逆らうこともできただろうが、終わったあとは不思議とよく眠れたので特にそうはしなかった。養父の箱庭から、私を解き放ったことへの労いの意があったのかもしれないが、あの頃はただ、大人たちはこんなことをしていたのかと思っただけだ。

 

 自らの肉体について、間欠(かんけつ)的に誰かに触れさせておいた方がおそらく面倒がないと気がついたのは、女の元を去ったあとのことだ。

 女は髪の長さなり、下着の色なり、私の生活については何も触れはしなかったが、私の持ち合わせた体にだけは強く固執した。そのすべてが女の熱や弾力によって象られたものであることを、時間をかけて繰り返し私に教え込もうとした。

 

 女があの頃の私から何かを奪ったのだろうかと考えることはあっても、私は養父のように女を恨んだりはしなかった。おそらく今もそうだろう。

 養父は厳格な人格者で、女としての私には指ひとつ触れることはなかったが、誰かを恨むのであれば、それはやはりあの女ではなかった。


 ――一度見逃せば、男は二度つきまとう。二度見逃せば、次はどうなるか、分かるでしょう?


 放心した私が眠りに落ちるまで耳元で(ささや)き続けることを常としていたからか、女の声はいつも私の耳元で鳴り響いた。

 そして女を去った今となっては、その声は私の肉をまとうようになっていた。


「このままでは、私たちは眠りにつくことができない」

「お、おい。何言ってんだよ? お前、さっきから変だぞ」


 あの女の声が聞こえるということは、いよいよ私はこの男を殺さなければならないのだろう。あの女の言葉は、いつも誰かの死とともにあったからだ。そして、女の私語ささめきは常に明確で、私を曇らせるということがなかった。



 視界が、ひどくぼやける。水槽の中にでも、浸かり込んでしまったように。

 男の姿は遮られ、私の腰元からは、私を強引に揺り起こそうとする疎ましい声と振動だけが伝わってくる。


「お前たちは、どこからやってくるのか」


 いつしか私は昼間の光景を思い出していた。目蓋の内を、いつまでも(まだら)に差し込む強い光がそうさせたのかもしれない。


 思えばこの男もまた、私の関与した偶然に吸い寄せられるようにして舞い込んできた羽虫のひとつだった。

 それならばと、女は言っている。この運のない羽虫の首を払うことが最も確実で、最もシンプルな振舞いなのだと。初めからそうしておけば、何も面倒はなかったのだ、とも。


 かつての所属では確かにそのように教えられてきた。そしてそのための獲物ナイフは、今も私の足の付け根で、音もなく揺れているのだった。


「おい、大丈夫か、フラン。お前、やっぱりおかしいって」


 だが、そんなものは教えられたことに過ぎなかった。私は男の名前を思い起こしながら、どうにか私自身の言葉を手繰(たぐ)ろうとした。


「エルンスト、とか言ったな?」

「……いや、人違いだな」


 私は、誰かに教えられたものを恃みに遠い異国へと流れてきたのではあるまい。

 私の手から生まれたこの偶然を、私自身がどう振る舞うのか。今の私は、そんなことを気にかけていたのではなかったか。少なくとも、これまで私が思いもよらなかった仕方で。私自身が、どう振る舞うのかを。


「まぁ、この際誰でも構いはしないが」


 光に隔てられた視界の果てで、淡く、男が映り込んでいる。自分が(ゆる)されたのか、そうでないのかも分からない、憐れな男の姿が。


 私は黙って男がいるはずの場所を見つめていた。それとも、いくらか笑っていたのかもしれない。この男と、初めて出会った時のように。

 おそらく私にはもう、分かっているのだ。こんな男をひとり足元で遊ばせておくくらい、本来どうということもないのだと。私はそうやって、あの黒い蝶を好きに遊ばせていたのだから。

 

 あとはただ、このまつろわぬ手指を男の頭に載せさえすれば、私はきっと男を赦すことができる。そう、私はきっと、この男を、自分の意思で、赦す……ことが……。


 できた、はずなのに――


「そこに、いたのか」

「おい、待てって――」


 男を認めた途端、私は考えるよりも先に安堵してしまったのだろう。

 一度は去りかけた女の声が驟雨しゅううのように私を打ちつけると、私は赤く輝いた男の髪をつかみ、再び取り出したナイフを逆手に、そのまま男へと振り下ろしていた。


「私に触れなければ、こんなことには、ならなかった」


 最後に私はそう呟いた。私の願いは叶わなかったのだろう。薄れ行く意識の端で血が舞ったように感じたが、ナイフを握り締めた手の感触はもうすでに失われていた。


 私は男を伝って、あの黒い蝶の(はね)までも裂いてしまったのだと思った。触れれば()れてしまいそうな、黒く肉感のあるあの翅を。彼らが望むのなら、いつまでも、私の足元で好きに遊ばせておこうと、そう思っていたはずなのに。


 ――ねぇ、フラン。私の元を去ったとしても、あなたが私から離れることにはならないのよ。そのことを、どうか忘れないで。


 別れ際の女の声が、名残病(なごりや)んだように私の耳を打っていた。

 私を惜しむ声とばかり思っていたが、そういうことではなかったのだろう。だとすれば、これもまた女の声を真に受けてきたひとつの罰ということなのかもしれない。


 何かの終わりを告げるような明滅する光に当てられてそのまま目を閉じると、あとにはすうっと胸を()く石鹸の、かすかな匂いだけが私を捉えていた。

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