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フラン・ロイスダールの逃走  作者: みかげ石
第一章 私が男と眠るまで
11/27

11 私を包む暗がりⅡ

「私に二杯もアクアを飲ませたのは、そういう腹か」

「いや、あの一杯は余計だったんだがな……」


 私は男をにらみつけた。男が、返答を誤ろうとしていたからだ。


「すまないことをしたとは――」

「それもいい。先立つもののない謝罪が一体何になる?」

「……手厳しいな」


 通りからこちらに手を振る女の姿が見える。私が男をひざまづかせている光景に、きっと共感したのだろう。


 私は一拍置いて、女が過ぎるのを笑顔で待った。分かりやすく身繕いをした夜の女が拳を振りぬく姿は滑稽(こっけい)で、男の罪過というのはどこにでも転がっているものだと私を安心させた。


「それで、何が分かった」


 私が一段声の調子を落として男に問いかけたのはそれからだ。この問いが、男にとって今後を占うものになるとでもいうようにだ。


「私の体液を採取して、何が分かったかと、聞いている」

「……少なくとも、俺の見立てでは、マグの唾液と、神域に残されていた人型の魔力痕とは、互いに矛盾しないものだった」


 言いたいことはすでに分かっていたが、いかにも良心が(とが)めるという風に男は渋りながら言葉を選ぶものだから、私はもう少し男の話が聞きたくなった。

 善意に満ちた温室で育てられたものよりも、悪事をなした自覚のある人間にこそ、良心というのは美しく花開くからだろう。


「つまり、なんだ?」

「……フラン。お前が、神の消えた原因だって、俺は――」


 このときにはもう、私は男の顔面を蹴り上げていた。壁に打ちつけられた額からは擦れたような血が(にじ)んでいる。

 じりじりと、こちらの気配を(うかが)うように壁を這っていた黒い虫たちは、もうどこにもいなかった。彼らはこんな男よりもずっと察しがいいと、私は思った。


「お前のこと、少しは見直してやってもいい。そうだと知って私を付けまわすとは、お前も大した度胸だな?」

「フ、フラン、教えてくれないか。俺はただ」

「私の記憶では――」


 ひらりと翻したばかりの指に力を込めた私は、今度は男の腹を蹴り下ろしていた。少し、妙だと思った。こんなことをするために、私はわざわざ男を(おび)き寄せたのだったか。


「私の事情を詮索するつもりはないと、お前は言ったはずだ。だが、結果はこれだ」

「待ってくれ。だからって、俺は……」


 それでも、この体は何を疑うでもなく一定のリズムを保って執拗に男を打ち続けていた。そして打つ度に、他人の肉を損ねた時のあのよくない感触と、痛みにもだえる男の声がするすると私から遠のいていくのを感じていた。


「私の質問に偽りなく答えた姿勢だけは買ってやりたいが――」


 ふつふつと、何かノイズめいたものが滲む視界を疎ましく思いながら、私は男の耳元で確かにこう口にしていた。


「どうやらお前は、ここまでらしい」


 それは一言一句、私の発意を得た言葉ではあったかもしれない。それでも、私の身体においては必ずしもそうではなかったことに、私はようやく思い至ろうとしていた。


「言っておくが、ここはもう、お前の知る世界ではない」


 足の下をいくぐって逃げ出した男の行方を見やりながら、やがて男の顔が、続いて腕が、何かの皮膜のような障壁に包まれては遮られるところまでを見届けて、私はようやくそう声をかけた。


 つい先ほどまでは、誰かがそこを通る度に私の勇ましさをはやしたり、男への同情を示す祈りなりが聞こえていたが、今となってはもう、通りを行く人影は文字どおり、おぼろげに揺れる虚ろな影としか映りこむことはない。

 つまりは私が、()()()()からだ。


「……これが、空間魔術ってやつか」


 相手に気取られることなくそこに閉じ込めておくだけの強度を持った精巧な仮設空間、すなわち空間魔術と呼ばれるもの。これが、私が故国の軍に見出された理由のひとつだった。

 誰もが望んで扱える訳ではないこの術は、密室を欲しがる者たちにとても喜ばれたことを、私は今もよく覚えている。


「そうだ。こんなことだってできるぞ?」


 児戯に興じて得意になった子どものように、私は辺りに散らばっていた朽ちた木片を元あった姿へと戻してみせた。男が自らの手でふいにしてしまった、あの荒物あらものを載せた用具棚のことだ。

 それをつぶさに見ていた男は乾いた笑みを貼りつけたまま、そこで抗うことを止めてしまった。


「私に付きまとった男はこれまで何人かいた。だが、二度そうした者はいない。()()()()()()()()が、今ではいないということだ」


 私はもう、男を損ねることにほとんど痛みを覚えていなかった。それどころか、むしろある種の心地よさすら感じていたのかもしれない。

 ベッドで眠りに落ちる際の、自らの感覚を進んで世界へと明け渡すときの、あの蜜のように滑らかな微睡まどろみに、私は何もかも委ねようとしていたのだ。

 

 目の前の男に関して、おそらく私は(さじ)を投げてしまったのだろう。二度も私にたかろうとしたこんな男を生かしてまで、どうして私が面倒を抱え込まなければならないのか。

 そしてどうして、私の新しい生活をそっとしておいてくれないのか。私はもう、考えることさえ面倒になっていた。そんなときだった。


 ――目を閉じなさい、フラン。何も思いわずらうことはないの。


 私を肯定する、女の声がした。考えるまでも、ないことなの、と。あの女は、今も私にそのようにささやき続けていた。

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