10 私を包む暗がりⅠ
「……だ、誰が教育野郎だ! フラン。もう一度言ってみろ。俺はちゃんと名乗ったは――」
「気安いのは結構だが、あまり動かないでもらいたいものだ」
蹴立てて立ち上がろうとする男を疎んじた私はもう一度背後から胸板を締めつけ、喉元にナイフを宛がった。もちろん抵抗はあるが、恥じらう女の股よりも緩いものだ。
肉付きの悪い腕と汗を滲ませた綿のシャツからは、焼けたというより、陽に負けたような強い熱が感じられ、どうにも興を削がれた気分になった。
怯えきった脈に触れずとも、この男が軍人の類でないのはもう明らかだった。そもそもこれほど非力な男が軍人であったなら、甲冑云々よりも、まず貞操帯が必要なことだろうと、要らぬことまで思ったほどだ。
「ナイフの扱いには、あまり自信が持てなくてな」
私は不快だった。こんな素人同然の男が半可ながらも私の素性に勘付いたこともあるが、私の唇が未だ手入れを欠いた男の頬の感触に損なわれていたことが、何より不快だったのだ。
「うっかり皮膚を削いでしまわないか、心配だ」
痩せた男の頬の静かなカーブに沿って、私は鼻歌交じりにナイフを滑らせていく。
息を呑む男の端先でざり、ざりと、欠片をしだくような音が暗がりをそっと満たしていったそのあとで、遮るもののなくなった頬に私はもう一度口をつけておいた。
ひい、と小さく息を飲んだ男の肌は思いのほか滑らかで、耳元からはどこにでもあるような石鹸の健やかな匂いがした。
いくらか満足した私は腕の力を抜いて男を喋れるように仕向けたが、既に放心したように項垂れる男にとってはあまり意味をなさなかったものと見える。この男には少し、脅しが過ぎたのだろう。
「いくつか問う。返答を誤れば、もう、どうなるかは分かるな?」
柔らかな諦念を覗かせた男に免じて拘束を解いた私は、ナイフをしまい、汗ばんだ下着の縁を何度か摘み上げてから男へと向き直った。男たちの熱に当てられてじっとりと蒸れた胸の内へと夜気が紛れていくのを感じながら、私はようやく息を吐いたような気分になった。
「まずはそうだな、誰の差し金だ」
「……女だ」
「どんな」
「未亡人さ。亭主を、ロップウィルの神に殺されたと言っていた。その神が消息を絶った理由を俺に調べてほしいと、そう言ってきたんだ」
「それだ。そもそも、なぜ消息を絶ったと知った」
「三週間ほど前に山鳴りがあったのを知ってるだろ? 女はあの時、神域が激しく光るのを見たらしい。それで森に入ったんだとよ」
「大した度胸だな」
「亭主を亡くしてるんだ。覚悟を決めた女ほど、強い者はいないさ」
「それには同意するが、お前まで森に入った理由にはならない」
お前は弱くて、臆病だからな、と男の肩に手を添えて私は囁いた。
これという悪意があった訳ではなく、後々妙な気を起こして私と神の取り合いに入られても面倒だと思ったまでだ。それをいつまでも後ろ暗く受け止めてしまうのだとすれば、あとは男の問題だろう。
「あぁ、そうさ。確かに俺は弱くて、その上臆病だ。でもそんな俺にでも、やりたいことはあるし、できることだってある」
特に堪えた風もなく、男は私を見上げてそう言った。男が提げて歩くものにはろくなものがないと思っていたが、つまらないものばかりを提げている訳でもないらしい。
「なら訊くが、お前に一体何ができる」
「合鍵屋って職業に聞き覚えがあるだろう?」
クロッカスの花色を模した私のシュシュを指しながら、男は私の腕を見つめて少し笑った。そういうことかと私は理解したが、顔には出さなかった。
「あぁ、三文小説に出てくるあのスパイじみた連中のことか?」
「違う。お前が腕輪を偽造させた男の職業だと言ったんだ。そしてそれが――」
「お前の仕事という訳だな」
言葉を継いだ私に男は疲れたように頷いた。要するに同業者だからこそ、偽造に気付いたというだけのことらしい。
他人の魔力を分析し、事後的に再構成する組織だった御用学者がいることは軍にいた時分に知ったことだが、それを個人の稼業とし、清濁併せ呑んだ仕事を請け負う者がいると知ったのは、それより前の遥か幼い頃のことだ。
まさしくスパイ小説と呼ばれるもので、犯跡の消去や隠匿、なりすましや書類の偽造、果ては個人を標的とした殺しなど、合鍵屋というのは裏社会において何かと重宝する存在として描かれていたものだった。
私が実際に会った合鍵屋もまた、不法移民となるべき私の個人情報を偽り、合法的にこの国へと入国させる片棒を担いだ訳ではあるが、私から十分な報酬を得たはずのあの合鍵屋は、すでに「貧乏じみた」この町を去ったとも聞いていた。
熱心に私を口説こうとしていたくらいだから、今頃どこかの町でそういった享楽に溺れているのかもしれないが。
「お前は、その力で何をしている?」
「何って、そりゃあ人助けさ」
「物は言いようだな」
一人の人間の魔力を同定することは、彼を治すにも、糾すにも益のあることではあるかもしれないが、他人のために私を同定したとなると、そこで得られた利益について私は触れない訳にはいかなかった。




