4. 負けてやる相手は自分で選ぶ
翌朝も、俺は闘技場の治療室にいた。
寝台は八つとも埋まっている。添え木を抱えた闘士の横で、氷嚢が桶へ戻る。小さな水音だけが、妙にはっきり響く。
窓から入る朝の光に、添え木の白さが並ぶ。息を吸うたび、薬草の匂いと氷の冷気が胸の奥に溜まった。
ヴェスナは固く編んだ三つ編みを背へ払い、窓際の寝台に屈む。掛け布が擦れる音に、俺は足を止めた。
「昨夜の三人だけじゃなかったのか、治療師どの」
「夜の興行が終わるまでに、八人です。寝台は、もう一つも空いていません」
俺は潰れた左耳に触れる。昨日の夕方、呼ばれてすぐここへ来た時は、担架が三つだった。
「負け役は誰がやってる?」
「昨日から、赤毛の大男です。体が大きければ務まると、興行主が言いました」
昨夜、担架の三人に聞いた倒れ方は、足と手の話ばかりだ。剣をどう振ったかを語る奴はいない。
今朝の寝台でも、俺は同じことを聞いた。包帯の上から、闘士が先に手を差し出す。その手は、俺の前で止まる。
「先に手をついたんです。……体を止めたかったから」
隣の闘士は掛け布を引き、足を動かさずに俺へ向き直った。
「俺は、足が砂に残って……。受け身を取る前に、もう次が来ました」
添え木の闘士が、隣の寝台から俺へ手を伸ばす。起き上がろうとする肩を、俺は掌で押さえる。
「倒れた後にも打ってくる。そんな相手に、何をすればいいんですか!」
伸ばした指が俺の袖を摘まむ。指の力は弱い。袖のそこだけが、ひどく重い。聞いて回った話は、全部、倒れ方の話だった。
負ければ済むと、片づけられてきた仕事だ。三十年、誰も数えなかったその中身が、今は寝台の数になって並んでいる。
「手を先につくな。肩から回れ。頭は上げるな」
「バスコさんが相手なら、倒れてる間は待ってくれました。今は……その間がありません」
俺は寝台の脇に膝をつく。袖を摘まむ指をそのままに、肩を丸める形を見せた。
「今は寝てろ。ここで転がるな」
「……治ったら、俺にも教えてくれますか?」
ヴェスナが闘士の前へ氷嚢を置く。俺の肩も、その形のまま止まる。教える約束ならすぐできる。だが、まずこいつが立てなければ、その先はない。
「教える。先に立って帰れるようになれ」
戸が開き、蝋で固めた口髭をひねるドミンゴが入ってきた。
「戻れ、バスコ。給金は倍だ。三千敗が一つ二つ増えるだけだろうが」
「断る。負けてやる相手は自分で選ぶ」
ドミンゴの口髭をひねる指が止まる。寝台の闘士が顔を上げた。俺の袖から、指がゆっくり離れる。
「このドミンゴが三十年食わせてやったんだぞ!」
ヴェスナは氷嚢の桶を置き、ドミンゴへ向き直った。
「食わせたのは先代です。あなたは五年です」
「黙れ! 負けるだけの仕事を、誰があいつにくれてやった!」
俺は膝を伸ばす。ドミンゴは寝台を見ず、俺の前へ足を置く。塞ぐ場所だけは間違えない。
「給金の分は、引退試合までやった」
「倍と言ってるだろうが! 何が足りん!?」
添え木の闘士の手が、掛け布の上で小さく握られた。
「相手が立って帰るところだ」
「治療室まで歩くのも同じだろう! 客は勝つ者を見に来るんだ!」
ヴェスナが桶を持ち上げる。その底には、氷嚢を戻す場所がまだ空いている。寝台にはない隙間だ。
「八人のうち、歩いて帰れるのは二人です。治療室は出口ではありません」
窓の外で鐘が鳴り、俺は砂へ顔を向けた。
朝の光を跳ね返す剣を、赤毛の大男が持っている。お披露目の若い闘士は構えたまま、砂へ足を取られている。
「ほら、もう始まる! お前が戻れば、次の試合から出してやる!」
大男の肩が開く。俺は壁の松葉杖を取った。
「次じゃない。今だ」
通路から砂へ出る。靴底に、乾いた粒が滑った。大男の剣は、若い闘士へ振り下ろされるところだ。
俺は間へ入り、杖を斜めに当てて打ち込みを流した。
松葉杖は木剣より軽い。打ち込みの重さだけが、三十年ぶんの癖どおりに掌を通っていく。
流れた剣を追って大男の足が回り、砂の上へ尻もちをついた。若い闘士は、まだ立っている。その足元に担架は要らない。
「バスコだ! 負け役が戻ってきたぞ!」
客が立ち上がり、俺へ拍手を送った。
喝采が背中に当たる。勝って浴びる声は、どうにも背中がかゆい。杖を握り直し、客席から目を外す。
「勝手に止めるな! このドミンゴの興行中だぞ!」
「担架に乗るのは、仕事じゃない」
大男は腰を上げかける。俺は杖を下げ、その前の足から退いた。追う必要はない。
若い闘士は剣を下げ、自分の足を砂から抜く。靴が抜けても、しばらくその場を動かない。
「俺、今……倒れるところでした。バスコさん、来てくれて……!」
「立ってるな。そのまま通路へ戻れ」
砂の縁へ、ヴェスナが歩いてきた。拍手がまだ続く中、彼女の手が俺へ伸びる。
「それは備品です。返してください」
俺は松葉杖を両手で差し出す。借りた時より、少し丁寧に。
「すまん。ちゃんと戻す」
「振るための杖ではありません。……曲がっていませんね」
「曲げない受け方をした」
「……知っています」
俺は通路へ目を逃がす。闘士たちがこちらを見ている。若い闘士もその列へ入り、試合剣を足元へ置く。
「バスコさんが相手じゃないなら、俺は出ません」
後ろの闘士も試合剣を置き、砂への入口から離れた。通路を戻っていく背中を、俺は黙って見送る。
「黙れ! 出ると決めた奴から、砂へ来い!」
「俺も出ません。寝台が空くまで待つなんて、ごめんです!」
砂へ進む足はない。通路の奥から、肩を借りて歩く闘士が現れる。砂を擦る足音が、途中で途切れる。
「朝の稽古で足をひねりました。……まだ空いてますか?」
ヴェスナは治療室の中を見て、入口の闘士まで指で数えた。
「寝台は八つ、怪我人は九人です。今日の興行は、ここまでにしてください」
ドミンゴの足が砂を踏む。通路に並んだ剣のどれも拾われない。呼びつける声だけが、空いた砂の上に残る。
「給金を払わんぞ! 客を待たせて、ただで済むと思うな!」
客席から声が飛び、ドミンゴはそちらへ顔を上げた。
「出る奴がいないなら、金を返せ!」
別の客が、空いた砂を指す。その声に、客席のあちこちから手が上がる。
「負け役の杖が今日の一番か! 残りは払い戻しだ!」
蝋で固めた口髭が震える。客は木戸口へ立ち始める。ドミンゴの前には、勝たせる相手も負かす相手もいない。
「払い戻しだと!? このドミンゴが、払い戻しだと!?」
昼、ドミンゴは木戸口の台に座り、自分の手で銅貨を客へ返した。
客の列は通路まで続く。銅貨が板に当たる音の合間に、揚げ菓子の甘い匂いが流れてくる。砂へ戻る闘士はいない。
「三千敗の杖のほうが、今日のどの試合より良かったぞ!」
「黙って銅貨を持っていけ!」
垂れた白い眉の爺さんが銅貨を受け取り、迷わず列の後ろへ回った。
「おい、そこの爺! さっき払っただろうが!」
「並び直せば、また貰えるか試したんじゃ」
ドミンゴは台の板を叩く。爺さんは揚げ菓子を口へ放り込む。叩く音より、菓子を噛む音のほうがのんきだ。
「一枚の賭け札では三千枚もくれたのに、けちじゃのう!」
「出ていけ! 菓子の屑まで撒くな!」
台から離れる爺さんの向こうで、高く結った金髪が跳ねた。
レアンドルが宿の方角から駆けてくる。息を切らしても、大声の呼びかけはいつもどおりだ。俺は銅貨を数えるドミンゴの横から退いた。
「師匠、宿に客です。……勇者が、番号札を持って並んでます」




