5. 十年前の勝ちを、返しに来ました
宿へ戻り、昼過ぎから三十一番の相手を始めると、夕方には行列が裏庭の塀まで回っていた。
夕日が裏庭を斜めに切り、木剣を提げた影が塀まで伸びている。昼の熱を残した土に、靴を擦る音が途切れない。
その中に、番号札を握ったまま粥を食べる男がいる。麦わら色のぼさぼさ髪が、碗の上へ垂れる。順番が進むたび、碗も札も抱えて列を詰めてくる。
女将は空の碗を受け取り、また男の手へ一杯載せた。湯気がふわりと立ち、粥の匂いが剣の列を抜けていく。
「勇者が朝から並んで、これで三杯目だよ。剣を持つ頃には、腹まで重くなってるんじゃないかね?」
「粥を食いに来たのか?」
「順番を待つうちに、お腹が空きました。ここの粥、おいしいですね」
男は空いた手で番号札を上げる。並んだ男たちが木剣を下げ、その札の通りに場所を空ける。
番が来ると、男は碗を女将へ返して俺の前に立った。粥をすすっていた時と同じ顔で、まっすぐ俺を見る。
「六十三番、ロレンソです。十年前の勝ちを、返しに来ました」
「朝から並んでいたのか?」
「順番ですから。割り込んだら、僕の後ろの人が待つことになります」
ロレンソの手は、まだ札を握ったままだ。大きな口の端には、粥の粒が残っている。
俺が口元を指すと、ロレンソは袖で拭いて頭を下げた。俺は木剣の置き場へ目を移す。
「札はレアンドルに渡せ。木剣はそこの二本だ」
「はい。十年も持っていた勝ちですから、今日は急ぎません」
裏庭の縁へ、ヴェスナが入ってくる。固く編んだ三つ編みの先が、袖へ触れる。
彼女は木剣を取るロレンソの手を見て、塀の手前に足を止める。
「怪我人が出ないか、見に来ました」
「怪我人は出ない」
「知っています。十五年見ましたから」
俺は潰れた左耳へ手をやる。ヴェスナの目は俺の顔を素通りして、木剣を持つ手に留まる。耳に触れた指先だけが、妙に落ち着かない。
「なら、何をしに来たんだ、治療師どの?」
「今日は三合、全部見ます。逃げないで始めてください」
俺が手を下げたところへ、通りからゴンサロが近衛二人を連れてきた。足音が重なるにつれ、庭のざわめきが細くなる。
ゴンサロは庭の縁に立ち、二つに割れた顎をロレンソへ向ける。腰の剣には手も置かず、俺には目もくれない。
「勇者殿。三千敗の負け役に、本物の剣を教えてやってくれ」
「隊長殿の手紙は読みました。でも僕は、懲らしめに来たんじゃないんです!」
ゴンサロの靴が、乾いた土を強く踏んだ。ロレンソの靴は俺へ向いたままだ。
「勇者が負け役に頭を下げるのか!?」
「下げますよ。十年、ずっと気になっていたんです」
ロレンソは木剣を受け取り、握る場所を確かめた。言葉より先に、その手が俺へ向く。
「私が頼んだのは、この男を黙らせることだ! 礼など要らぬ!」
「でも僕は、僕の勝ちを確かめに来ました。隊長殿の代わりに戦ったら、また別の借りになります」
ゴンサロが口を開く。ロレンソはそれを待たず、俺へ木剣を上げる。
「バスコさん、受けてください。あの日よりは、ましになっていますから」
俺は行列と反対の塀際に目をやり、誰もいない藁束を確かめた。剣が飛ぶなら、あそこだ。
「三合だ。剣が落ちたら、それで終わる」
「はい。終わっても、帰る前にお礼だけは言わせてください」
一合目、ロレンソの剣を受ける。木が鳴った。十年前のように、右肩だけが先へ出ない。
足と腰に乗った打ち込みの重さが、俺の手へまっすぐ来た。逃がしてやる必要のない重さだ。
「いい剣だ。――十年前より、ずっといい」
「何度も振りました。あの日、どうして剣が届いたのか、そこだけが分からなくて」
俺は受ける剣を戻す。今の剣には、見せ場を作ってやる隙間を空けない。あの頃と同じように扱うほうが、よほど失礼だ。
「今のは、あんたの剣だ。そのまま来い」
二合目、ロレンソは俺の剣を押さえ、足を先へ入れた。
俺も踏み直して受ける。靴の下で土が鳴り、太い手首の先で掌が痺れる。握った柄の感触が、一瞬遠くなる。
「……これは、簡単には届きませんね!」
「届かせるつもりで振れ。俺も、止めるつもりで受ける」
ロレンソは歯を見せて笑い、柄を握り直した。俺も握りを締める。
三合目の剣が来る。今度も、まっすぐだ。俺はその重さを受け、藁束のほうへ巻き上げる。
ロレンソの木剣が手を離れ、行列から遠い塀際へ飛んだ。夕日の中を、木の影が横切る。
塀の向こうから、小さな影が塀の上へ跳び上がる。垂れた白い眉が、木剣の先を追う。
藁束へ落ちる前に、爺さんは木剣を片手で掴んだ。
ロレンソの手は空だ。俺は剣を下げ、長く息を吐く。庭にまだ、木剣を打ち合わせた音が残っている気がする。
「参りました。……そうか、これが負けか」
ロレンソの大きな口が開く。息を継ぐ間も惜しむように、声を出して笑った。
「ははっ! 僕の剣、ちゃんと止めてもらえた! ……手、握ってもいいですか?」
俺の足が半歩下がりかける。目の前へ差し出された手は、木剣を持つ時と同じ向きだ。負けを渡した相手が、俺の手を待っている。
下がりかけた足を、俺はそこで止めた。
「……ああ。いい三合だった」
俺は手を伸ばし、ロレンソの掌を握り返す。厚い掌で、豆の位置が俺と同じだ。十年、毎日振ってきた手だ。剣越しには分からなかった熱が、こちらの掌にも移ってくる。
「受けてくださって、ありがとうございました。立ったまま負けるのも、いいものですね」
握った手を離すと、ロレンソは行列へ向き直る。俺の掌には、まだあの熱が残っている。
「十年前の勝ちは、貰い物でした。今日の負けは、僕の物です」
行列の男たちが笑う。ゴンサロの傍にいた近衛も、ロレンソへ顔を向けた。
「俺も返しに来たぞ! 木剣で答えてくれ、バスコ!」
男たちが木剣を高く掲げ、庭の上に剣の列ができる。夕日を受けた剣先が、塀へ届くほど長い影を揺らす。
「勇者が言うなら、俺の勝ちも貰い物だな!」
その声へ、別の男が木剣を振って応じる。
「貰い物でも十年、いい酒の肴になったぞ!」
笑い声の中で、レアンドルが拳を突き上げた。
「師匠! 本気で勝つところ、二度目です! 一度目は俺でした!」
「数えるな」
俺はレアンドルから目をそらす。ロレンソは俺の横へ立つ。ゴンサロが伸ばしかけた手は、空を掴む。誰もその手へ、自分の手を差し出さない。
「勇者殿、まだ話は終わっておらぬ!」
「僕の三合は終わりました。隊長殿の番なら、僕はここで見ますよ」
塀の上から爺さんが降りる。掲げる木剣の列へ、体ごと割って入った。
足が土へつく前の動きに、俺の手が止まる。どこかで見た足運びだ。思い出しかけたものが、すぐ目の前の声に押し戻される。
「次はわしじゃ! もう一本!」
高く結った金髪を揺らして、レアンドルが爺さんの前へ札を差し出した。木剣より先に、番号札だ。
「番号札はお持ちですか?」
「順番など知らん! 剣を拾ったのはわしじゃもん!」
爺さんは木剣を脇に抱える。構えはせず、口だけが尖る。札を見ても、剣を抱え直すばかりだ。
「僕の札は返しましたから、次は後ろの人ですよ」
「爺さん、剣は藁束に置け。先に札を貰え」
俺は木剣を置く場所を指した。
「剣を返すのに、もう一本もなしとは!」
「粥なら、もう一杯売るよ。順番を守るなら、あんたにもあるよ!」
爺さんは女将の鍋へ顔を向ける。抱えた木剣の先まで、つられて鍋のほうを向く。俺の横で、ロレンソがまた笑う。
その笑いに背を向け、ゴンサロは俺の前へ足を進めた。間に立つ者は、もういない。
「証がどこにある! 三千敗がわざとだという証が、どこにある!?」
行列の木剣が下がった。ゴンサロの後ろに、ロレンソは戻らない。土を擦る音まで途切れ、鍋の煮立つ音が近くなる。
ヴェスナが縁から一歩進み、俺の隣に立った。今度は俺の手ではなく、ゴンサロをまっすぐ見ている。
「証なら、あります。三十年分、全部つけてありますから」




