3. 三千回、偶然負けた
昼、宿の前に怒鳴り声が響き、行列が左右に割れた。
近衛隊長のゴンサロだ。磨いた胸甲の下で、二つに割れた顎が俺へ向く。空いた道に、靴音が硬く響く。
近衛四人を従え、ゴンサロは通りの真ん中へ進んできた。
胸甲が昼の日を跳ね返す。男たちは目を細め、辺りの話し声が細くなった。
「負け役を出せ! 私を待たせるな!」
「ここにいる。順番なら、その先だ」
潰れた左耳を掻く俺の横で、レアンドルが行列の男へ札を渡す。怒鳴り声にも、その手は止まらない。
昼から配り始めた番号札を、ゴンサロにも差し出した。
「四十七番です。お並びください、隊長どの」
ゴンサロは札を手の甲で払う。乾いた音が、通りの静けさにやけに響く。
「三千敗の負け犬が、偶然で図に乗るな!」
「偶然だ。三千回、偶然負けた」
「……は?」
「数えてみろ。俺と戦って怪我をした奴がいるか?」
札はレアンドルの靴の前に落ちたままだ。行列の男たちが顔を見合わせる。怒鳴り返す声は、どこからも上がらなかった。
レアンドルが屈む。高く結った金髪を揺らして札を拾った。
「師匠の相手は無傷だ。俺も昨日、そうして帰った。隊長どの、俺の手を見ろよ!」
「貴様の一番など知らぬ! 私は十五年前、この男を沈めている!」
行列の後ろで、誰かが口笛を吹く。胸甲を見ていた顔が、今度は俺のほうへ向く。
「覚えてる。右から打って、返した一撃だな」
ゴンサロは胸甲へ左の拳を当てた。右の腕は体の横にある。そこだけ、怒鳴る声についてこない。
「〈返しの一閃〉で私は近衛に上がった! あれは本物だったと、ここで言え!」
行列の後ろにいた男も歩みを止め、俺の返事を待った。
「本物かどうかは、三合で分かる」
「私の十五年に、今さら何の答えが要る!?」
俺は戸口に立てていた木剣を取る。柄をゴンサロへ向ければ、握るだけで済む距離だ。
「言わせたいことがあるなら、あんたが確かめろ」
「負け役ふぜいが、近衛隊長に木剣を向けるか!」
「向けてない。柄を渡してる」
差し出した柄の前で、ゴンサロの手が止まった。
手は剣へ行かない。右肘も、体から離れない。俺は柄を引っ込めずに待つ。
「近衛は見世物をせぬ。……おい、お前が相手をしてやれ」
後ろの若い近衛が、肩を押されて一歩前へ出た。
「隊長、俺がですか? 俺はまだ、近衛に入ったばかりです」
「負け役ごときに何を怯む! さっさと近衛の剣を見せてやれ!」
若い近衛は剣と俺を交互に見る。磨いた胸甲の四人の中で、靴だけがまだ新しい。踏み出した足は、そのまま止まっている。
俺は柄を低く差し出し、若い近衛の手に渡した。
「お前でいい。裏庭なら、人に当てずに振れる」
「……お願いします。俺、強い相手に勝ったことは、まだありません」
ゴンサロも行列も裏庭へ入る。足音が重なり、乾いた土の匂いが立つ。隊長の右の手は、まだ空だ。
俺は庭の端を見てから、若い近衛と向き合った。
「木剣で三合だ。その前に、一度振ってみろ」
「素振りなら、毎朝やっています。こんな振り方で、いいですか?」
木剣が頭の上を通る。握りは固いが、腰は剣より先に動く。振り抜く音は、思いのほか軽い。
振り終えた若い近衛は、俺の返事を待って柄を握り直した。
「肩の力を抜け。右から来い」
「右からだけで、勝負になるんですか?」
ゴンサロの眉が寄る。俺は木剣の先を少し下げる。若い近衛の目も、その先へ下がる。
「まず打て。次は受けてから決める」
半歩下がって間合いを空けると、若い近衛の前の足が動いた。
この腰なら、剣は返る。今日は、きれいに負けてやる。俺はその足から目を離さない。
「行きます!」
一合目。右から入った若い近衛の木剣が俺の受けに乗って返り、下から俺の木剣を弾いた。
木剣が庭の端へ飛ぶ。俺は腰を落とし、尻もちで地面へ力を逃がす。
尻の下から、昼の日で温まった土の熱が伝わった。受け身を取った肩にも腰にも、どこにも響かない。
立っている若い近衛の口が、大きく開いた。
「いい剣だ。――十五年前に見た」
「隊長、見ましたか! 今の、俺、何もしてません!」
木剣を見て俺を見て、また木剣へ戻る。若い近衛の首だけが忙しい。俺は土に手をついたまま、その剣が下がるのを待つ。
行列の男が、ゴンサロの顔を覗き込むように背を伸ばした。
「今の、〈返しの一閃〉だろ?」
隣の男が、若い近衛の胸甲へ目を向ける。さっきまで道を譲っていた男たちの間を、声が渡っていく。
「隊長の一撃を、新兵が初手で出したぞ……」
近衛の一人が、小さく息を呑んだ。
「……隊長の一撃と、同じ軌道でした」
ゴンサロの口が開く。若い近衛は木剣を胸へ引き寄せる。
「隊長! 教わった時にも、こんなふうには振れませんでした。もう一度、見ていただけますか?」
ゴンサロは左の拳を胸甲から離し、若い近衛の剣へ目を向ける。
「戯れ言だ。私をこんな所に呼び止めるな!」
「四十七番の札はここだぞ、隊長どの! 剣を取るのは、これからだ」
レアンドルの差し出す札を、ゴンサロは取らない。札の端だけが、風にかすかに揺れる。
行列を割る背中へ、近衛たちの目が残った。
俺は尻についた土を払う。若い近衛が、先に俺の木剣を拾いに走った。去っていく足音より、そっちの足音のほうがよく聞こえる。
「木剣、返します。ありがとうございました。あんな剣が出せるなんて、俺……!」
受け取る手の前で、若い近衛が頭を下げる。俺は戻ってきた木剣を握り直し、相手の足元へ目を逃がした。
「足が動いたからだ。次も、肩を上げるな」
「はい! 絶対、忘れません!」
近衛の目は、戸口と俺の手を行き来する。呼ばれる声がしても、足はすぐに出ない。
レアンドルは俺の木剣を見て、拾っておいた札を懐へ入れた。
「師匠。今のも、負けに数えるんですか?」
「数える。きれいに負けた」
「三千一敗ですね! でも師匠、負けたほうがこんなに嬉しそうな勝負って、ありますか!」
若い近衛は、木剣を握ったままの自分の手を見てまだ笑っている。俺は指の間に残った土を落とした。負けて土を払う時だけ、俺の手は迷わない。
「立って帰れるなら、それでいい」
「師匠は、それしか言わないんですね! ここはもっと、自慢していいところですよ!」
「……腹が減った。粥はまだあるか」
「俺、倒れるところも見ます! 明日、教えてください!」
俺は庭の土を均す。次の相手が踏む場所を空けた。
「転がる前に、足の置き方からだ」
「はい、師匠!」
行列の中から、太い声が飛ぶ。均した土に、俺はもう一度目を落とす。
「おい負け役、今のを俺の倅にもやってくれんか!」
「札を持って並べ。倅のほうだ」
戸口に残った男が木剣を上げた。俺はその手の高さへ、自分の木剣を合わせる。
◇
夕方、三十番の男に答え終えると、裏庭の戸が開いた。
その日の相手はここまでだ。木剣を下げる俺の前へ、ヴェスナが進んでくる。宿の影が、昼より長く庭へ伸びている。
固く編んだ三つ編みを肩から背へ払い、彼女は庭の真ん中で足を止めた。
俺は木剣を壁に立てかける。ヴェスナの靴には、闘技場の砂がついている。柄を離した手のひらを、夕方の風が冷やした。
「闘技場へ来てください。今日だけで、担架が三つです」




