2. 負けてやるほうが、ずっと難しい
翌朝、宿の二階の窓を開けると、通りに十二人の男が並んでいた。
粥の湯気が、冷えた朝の通りへ白く上がっている。窓まで届く匂いに、腹が鳴る。
揃って木剣を持っている。昨日、順番に来てくれとは言った。朝飯の前に押しかけろとは言っていない。
「粥は一杯銅貨三枚だよ。剣を振る前に食べていきな!」
前掛けの女将が太い腕で鍋を運び、行列の先へどんと置いた。
「昨日まで、二枚だったろう?」
「有名人の宿だからね! 宿代も今朝から割増だよ」
階段を降りる途中で、俺は足を止める。潰れた左耳を掻いても、値は下がらない。聞こえないふりもできない。
「割増の宿には、まだ一晩も寝てないぞ」
「あんた目当ての連中が、うちの前に立ってるんだよ!」
裏口へ曲がったところで、女将が俺の襟首を捕まえた。
「裏庭の掃除をしてこようかと……」
「行列を片づけてからにしな! 先に粥も払うんだよ」
木剣の先が、揃ってこちらへ向く。空っぽの腹を抱え、俺は通りへ出る。
先頭の男が、見覚えのある構えで木剣を持ち直した。
「あの時の勝ちは、本物だったのか?」
「お前、昔、闘技場でお披露目をやったな」
「俺はあんたに勝った。王都を出ずに、小さな店をやってる。名を上げた連中とは違う。けど……俺だって、昨日の剣を見たんだ」
答える前に、行列の後ろから蝋で固めた口髭が割り込む。
ドミンゴはレアンドルの腕を引き、行列に見せつけるように俺の前へ押し出した。
「昨日のはまぐれだ! 三千敗の負け役が、一度つまずいて勝っただけだ!」
高く結った金髪が揺れる。レアンドルは俺の顔から目を離さない。
「もう一度だ! まぐれで勝って、満足か!」
「勝つのは簡単だ。負けてやるほうが、ずっと難しい」
「な、なんだと……?」
先頭の男が口を閉じ、後ろの男も木剣を下げた。
木剣の触れ合う音まで止み、鍋の煮える音だけが残る。
自分の口から出た言葉に、俺のほうが驚いた。それでも、今の言葉を引っ込める気にはなれない。
「負けるほうが難しいだと! このドミンゴの前で、まだ言い張るか!?」
「相手を光らせて、立って帰す。俺はそれで給金を貰ってきた」
ドミンゴは行列へ腕を広げる。俺に向けていた顔を、客のほうへ向け直す。
「皆さま、この場でもう一度お見せしましょう。王者がどちらか、すぐに分かりますぞ!」
レアンドルの肩が、ぐっと上がった。
「剣を飛ばしたくらいで、俺の全部が分かった顔をするなよ!」
レアンドルは木剣を取り、俺へ突き出す。
「全部は知らん。受けた剣は覚えてる」
「じゃあ受けろ! 今度は落とせないように、握っとけ!」
宿の裏庭へ、男たちがぞろぞろ入っていった。女将も粥の鍋を持ち、すぐ後ろについてくる。
俺は庭の真ん中で木剣を受け取った。湿った土が、靴の下で柔らかく沈む。
「木剣で三合だ。剣を落とすか、膝をつくか、参ったと言えば負けだ」
「分かってる! 始めろよ!」
上がった肩の下で、長い腕が力む。俺は手首を、その下へ滑らせる。
一合目を受けると、レアンドルの肩が少し落ちた。木剣越しの重みが、すっと軽くなる。
「力で押さなくても速い。お前の剣はそうだ」
「説教は、勝ってからにしろ!」
二合目、俺は二年前のお披露目と同じ位置に足を置く。剣を受ける角度も、あの日のままだ。
間合いに入ると、裏庭のざわめきが遠くなった。二年前の砂の上と、同じ静けさだ。
右上から振り込まれた木剣に、俺の指が開きかけた。考えるより早く、体が昔の仕事に戻ろうとする。
行列がどよめく。木剣はまだ俺の手のひらに残っている。
「……二年前と同じだ。俺が、一番強かった日と」
レアンドルの声が低くなる。肩から力が抜けても、長い腕の剣は止まらない。
三合目、俺は柄を握り直し、スッと剣を避けるとレアンドルが踏み込んだ左膝の横へ木剣を進め、つついた。
「ここだ。踏み込むたび、左の膝が内へ入る。五年で壊れる」
「くっ?!」
レアンドルは木剣の先を見て、自分の足を見下ろす。庭の静けさに、鍋の煮える音が戻ってくる。
「……二年前も、そこを避けてくれたのか?」
「お前が立って帰るまでが、俺の仕事だ」
言ってから、口の中が乾く。受けた相手に、その足の話をするのは初めてだ。木剣を握る指に、余計な力がこもる。
レアンドルの木剣が手から落ち、膝が地面についた。
「弟子にしてください! 剣を、教えてください!」
俺は木剣を下げる。差し出された両手が、また俺へ近づく。
褒められるのは苦手だ。倒れるより、ずっと受け身が取りにくい。逃げ道を探す目が、勝手に裏口へ向く。
「師匠! 俺の足、まだ直せますか!」
裏口へ向き直った俺を、女将がもう一度襟首で引き止めた。
「……粥が冷める。まず飯にする」
「師匠、飯の間でも聞きます! 俺……今まで、倒れる相手を見てませんでした。自分が勝つところばっかりで……!」
「声が大きい。行列が聞いてる」
「聞かせてるんです! 俺の師匠は、この人だって!」
女将が俺の背中を押す。レアンドルの膝は、まだ地面から離れない。
「馬鹿を言え! お前はうちの看板だぞ、レアンドル!」
ドミンゴの手を避けて、レアンドルは自分の木剣を拾う。
「看板なら昨日、客席まで飛びました」
「このドミンゴが、二年、お前を王者にしてやったんだぞ!」
行列の男たちが吹き出す。ドミンゴの口髭が、片側だけ跳ねた。
「王者が弟子入りだとよ! こりゃ粥どころじゃねえ!」
「粥は粥で食べていきな! 見物だけなら、銅貨一枚だよ!」
女将の声に、行列がまた笑う。鍋の湯気が、笑い声の間を白く流れていく。
「俺は昨日、負けた。だからここで、負け方を聞く」
ドミンゴがレアンドルの腕を掴みかける。レアンドルは、その手を払った。
「客は三日で忘れる! その時になって泣きついても、知らんからな!」
行列は道を空ける。ドミンゴが歩き出しても、誰もあとを追わない。
先頭の男が庭へ戻り、木剣を俺へ差し出した。
「待ってる間に、ますます怖くなっちまったぞ。俺の時も、三合か?」
「三合だ。お前の番を飛ばして悪かった」
答えは一人ずつ、木剣でお返しする。
男の最初の打ち込みを受けると、腰が以前より低くなっていた。木剣から伝わる重さが、昔とは違う。
「店で立ちっぱなしだからな。少しは役に立つか?」
「足が残らなければな。動いてみろ」
二合目を受け流す。男は剣を追い、足を揃えずに踏み直してくる。
三合目、俺の木剣が肩に触れる前に、男は自分で膝をついた。
「……俺の負けだ。はは……立って帰れるもんなんだな。ありがとうよ」
俺は木剣を引く。笑って立つ男を、後ろの元闘士がせかして場所を空けさせる。
「師匠! この人も、次の人も覚えてるんですか!」
「受ければ分かる。列の先から呼べ」
昼前まで、元闘士や腕試しの男たちに順に答えた。木剣の乾いた音が重なるたび、朝の冷たさが薄れていく。
俺は手のひらの砂を払う。柄の硬さが、まだ指に残っている。通りへ出ていたレアンドルが、庭へ駆け戻ってきた。
「師匠。次は近衛隊長だそうです。……ものすごく、怒ってます」




