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1. 三千敗の引退試合

「三十年で三千敗。もう客も飽きた。今日で終わりだ、バスコ」


 ドミンゴは最後の給金の袋を卓へ投げる。硬貨の音は、ひどく小さい。控え室には、三十年ぶんの汗と剣の油の匂いが染みついている。


「……ああ。世話になった」


 俺はバスコ、四十六歳。闘技場の〈負け役〉を三十年やっている。


 壁の番付(ばんづけ)を見上げると、一番下には今日も俺の名があった。長く見なくても、目が勝手にそこへ向く。


「最後くらい派手に転がれ。せいぜい客が笑えるようにしろ」


「相手は誰だ?」


 ドミンゴは蝋で固めた口髭の先をひねった。俺の顔には、目もくれない。


「レアンドルだ。無敗の王者と三千敗。これほど分かりやすい花道もないだろうが」


 袋を開かずに懐へ入れ、俺は卓から立ち上がった。いつもの重さが、今日はやけに頼りになる。


「お前の引退ごときに金を払う客なんぞいない。王者の見せ場を邪魔するなよ」


「分かった。相手に怪我はさせない」


 仕事は三つ。相手に怪我をさせない、客を沸かせる、きれいに負ける。迷った時は、いつもその順だ。


 水桶を覗くと、潰れた左耳の男がこちらを見ていた。水面が揺れても、見慣れた顔は変わらない。


「怪我の心配は自分のほうだろう。明日からは給金も出んぞ」


「今日の分は受け取った。飯は食える」


 ドミンゴが鼻を鳴らす。袋の口を押さえた指に、硬貨の角が当たる。


「先代は甘い男だ。負ける男に三十年も給金を払うなど、このドミンゴなら三日でやめている」


「先代には、拾ってもらった」


 冷たい水で顔を洗う。水桶の縁から、すぐには手を離せなかった。明日の仕事の支度は、もう要らない。


 通路を抜けた先で、試合の始まりを告げる鐘が鳴った。薄暗い通路の向こうで、砂がまぶしく光る。


「さあ皆さま、三千敗の負け役バスコ、最後の負けっぷりにございます!」


 客席から笑いが起こった。俺の名が番付の底にあるのは、客も知っている。聞き慣れた笑いに、肩の力が抜ける。


 刃を潰した試合剣(しあいけん)を提げ、レアンドルが砂へ降りてきた。靴が砂を噛む音まで、軽い。


「三合で終わらせてやるよ、おっさん。恨むなよ」


「剣を落とすか、膝をつくか、参ったと言うか。決まりはいつもどおりだな?」


 高く結った金髪が揺れた。長い腕の先で、剣が軽く跳ねる。俺はその切っ先を目で追う。


「決まりを聞き直すほど、長く立ってるつもりかよ」


 砂の縁では、ヴェスナが固く編んだ三つ編みを背へ払い、担架の傍に立った。


「担架は使わせないでください。片づけの手間が増えます」


「治療師どの、そこは任せろ」


 最前列には、揚げ菓子を頬張る爺さんがいる。垂れた白い眉の下で、賭け札がひらひら揺れる。甘い油の匂いが、砂の上まで届く。


「バスコに三千倍! 売れた札は、銅貨一枚きりにございます!」


 胴元でもあるドミンゴの声に、爺さんは菓子を持つ手を高く上げた。


「わしの一枚じゃ! 勝ったら菓子を山ほど買うんじゃ!」


「食ってる間に終わっちまうぞ、爺さん!」


 レアンドルが剣を上げる。俺は太い手首で柄を握り直す。手のひらになじんだ柄は、今日も同じ位置に収まる。


 一合目。右上から来た剣を、紙一重で受けた。


 手に来る重さは速い剣のものだ。耳のそばで鋼が鳴った。踏み込んだ左の膝だけが、内へ入る。


「いい剣だ。――三十年で、一番いい」


 レアンドルは眉を吊り上げ、剣を押し込んできた。


「褒めてる場合か!」


「褒めてる。本当にいい」


 長い腕が引かれる。次の打ち込みも右上からだ。俺の言葉より、剣の音のほうがよく響く。


「ふざけるな、おっさん! 余裕ぶってるつもりか!?」


 俺は踵をずらし、打つ手の前に剣を置いた。


「剣の話だ。ちゃんと見てる」


「だったら、こいつも見てろ!」


 二合目は、いつもの仕事だ。半歩空けて受ければ、レアンドルの剣が客によく見える。


 俺の肩を掠める寸前で刃が止まり、客席から歓声が上がった。


「見たか! 次で終わりだ!」


「足は、そのままでいいのか?」


 左の膝がまた内へ寄る。この膝の癖を、明日の相手は庇わない。きれいな剣を見たぶんだけ、そこが目に残る。


「俺の足に構ってる暇なんかあるのかよ!」


 倒れる支度を始めた俺の膝が、砂を少し押した。


 明日は、俺もここにいない。転がって終われば、あの足の癖だけが残る。


 倒れる時に砂へつくはずの左手を、俺は柄へ戻す。両手に収まった重さを、確かめる。


 もう、負けてやる理由がない。


 客席を上下に割る石段には誰も座っていない。飛ばす先は、あそこだ。


 剣を合わせる前に、俺は石段までの道を目で確かめた。


「終わりだ、おっさん!」


 ドミンゴの口上が、その声にかぶさる。


「皆さま、ご覧ください! これぞ王者の――」


 右上から来る剣に、俺の刃を乗せる。手首を捻らせず、握りだけをほどく。


 三合目、王者の剣が客席まで飛んだ。


 最前列の爺さんが席を立つ。揚げ菓子を離さず、空いた石段へ駆け上がる。


 落ちてくる剣を、爺さんは二本の指で挟んだ。


 口上は〈王者の〉で途切れ、ドミンゴの口が開いたまま動かない。満員の客席が、息を止めたように静まり返る。俺の足元で、砂のこぼれる音がする。


 俺の膝が勝手に折れかけた。


 砂へ落ちる前に足を張る。三十年、倒れるほうへ動いてきた膝だ。勝って立つ場所が、妙に落ち着かない。


「……すまん。癖で加減を忘れた。いや、逆か」


 レアンドルは、剣のなくなった自分の手を見つめている。指が閉じて、また開いた。


「……なんだ、今の。剣が、勝手に手を出ていった」


「手首は捻ってない。握りをほどいただけだ」


「三千倍じゃ! わしの銅貨一枚が、三千倍じゃ!」


「何をした、バスコ! 転がれと言ったろうが!」


「膝が言うことを聞かなかった」


 爺さんは賭け札を振って跳ねる。蝋で固めた口髭の先が、細かく震える。俺は立ったまま、砂を靴でならす。


「負け役ごときが勝って、どうするつもりだ!」


「今日で終わりなんだろう?」


 ドミンゴの指が俺を指し、途中で止まった。口だけが動いて、続きは出てこない。


「それより、わしの三千枚が先じゃ!」


 客席じゅうが胴元の台を見ている。銅貨三千枚の袋が運ばれ、ドミンゴは歯を鳴らして爺さんへ渡した。硬貨の音が、今度はやけに大きい。


「重いのう。ところで、この剣は誰に返すんじゃ?」


「王者に返せ! 菓子みたいに抱えるな!」


 レアンドルが空の手を差し出す。剣を受け取っても、柄を握る指はゆっくりだ。俺はその手が閉じるまで、砂の上にいる。


       ◇


 夜、治療室でヴェスナがレアンドルの手首を診終えた。灯りの輪の外で、昼のざわめきはもう遠い。


「握れます。振れます。今夜はもう振らないでください」


「……分かってる。おっさん、明日だぞ!」


 高く結った金髪が戸の向こうへ消える。大きな声に、閉じた戸まで震えた。俺の手には、まだ剣の重さが残る。


 ヴェスナは俺を椅子に座らせ、指を一本ずつ確かめた。


 俺の太い手首に、細い指が回る。その手つきだけは、負けて帰った夜と変わらない。


「手首も肘も無傷です。……負けた相手まで無傷なのは、あなたの試合だけですよ」


「そうか」


 勝つのは、思っていたよりずっと簡単だった。


 ヴェスナは俺の手を離す。寝台も担架も、今夜は空いている。窓からの涼しい風に、寝台の白い布だけがかすかに膨らむ。


「十五年、あなたの試合の後だけ、ここは暇でした」


「暇なら、いいことだ」


 薬草の匂いの中で、彼女の口の端がわずかに上がる。見ないふりをすると、今度は手の置き場に困る。


「強く握りすぎてはいません。痛むところはありますか?」


「ない。腹が減っただけだ」


 治療室の戸へ向けた俺の足を、ヴェスナの靴が遮った。手のことは済んだはずなのに、出口が遠い。


「逃げる前に聞いてください。闘技場を出て名を上げた人たちのことです。明日から大変ですよ」


「何が?」


 彼女は指を折らずに数を言う。その声に、俺は戸から足を引いた。


「百人です。あなたに勝ってから、名を上げた人の数です」


「俺に勝った奴が、百人か。……順番に来てくれると、助かるんだが」

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