「小僧のお経は、ハーモニックマイナー。」(中盤)
☆午前二時のセッション
「――というわけで、作戦名は『深夜の押し入れセッション』ですわ。皆様、お静かに……」
「麗華が一番声大きいよ」
深夜二時。あたしたちは、寺の庫裡の裏手にある小さな部屋の前にいた。
慈念さんの部屋だ。
ナナシさんの調べによれば(この人は本当に何でも知っている)、この部屋の押し入れの奥には、古いエレキギターがしまい込まれているらしい。
「……小僧がここに来た時、持ってきたもんじゃ。それから一度も、出しとらん」
ナナシさんはそれだけ言って、帰っていった。
夜更かしは腰に来るらしい。幽霊なのに。
「……いいか、最終確認だ」
雷太さんが、小声で全員を見回した。
「霊が生きたもんに触れるのは、落ち葉一枚が限界だ。
だが弦一本を弾くくらいなら、集中すればできる。……一人一音だ」
「一人一音……」
「鳴らすのは、ミから始まるフレーズだ。
ミ・ファ・ソ♯・ラ・シ・ド・レ・ミ。ハーモニックマイナーを、五番目の音から弾く。
フリジアン・ドミナントとも言う」
「ふりじ……どみ……?」
「顔で感じろ」
「だから顔でどうやって!?」
役割分担は、こうなった。
源蔵じいちゃんが「ミ」。元大工の指先は力強い。
鬼塚さんが「ファ」麗華が一番大事な「ソ♯」。
あたしが「ラ」残りの「シ・ド・レ・ミ」は、雷太さんが一人で。
「えっ、雷太さんは四つもいけるの?」
「三十年、見えねえギター弾いてたんだぞ」
……強い。
あたしたちは、闇の中をそっと部屋に入った。
六畳間。文机と、経本と、布団が一組。布団の中で慈念さんが、いびきをかいて寝ている。
寝言で「……かんじー……ざい……」とつぶやいている。
寝てても練習してる。寝てても下手だ。
押し入れの襖を、雷太さんが集中して数センチだけ開ける。
一番奥に、黒いソフトケース。チャックの隙間から、尖ったヘッドがのぞいていた。
「……へっ。いい趣味してんじゃねえか」
雷太さんが、嬉しそうにつぶやいた。
――準備。
五人が、ギターの周りに散らばる。各自、担当の弦とフレットに指をかざす。
雷太さんに教わった場所。ここを押さえて、ここを弾く。
ただし、弾くのは指じゃなくて、気持ちだ。
「……いくぞ。ワン、ツー、スリー、――」
――ポーン。
源蔵じいちゃんの「ミ」が、小さく、でもはっきりと鳴った。
「で、できたぁ!」
「声出すなジジイ! 次!」
――ポ、ポーン。
鬼塚さんの「ファ」。ちょっと遅れた。
鬼塚さんは「リズム感なら走り屋で頑ってたんだがな……」と小声で言い訳した。
関係ないと思う。
次は麗華の「ソ♯」雷太さんは「ここが全部だ」と言っていた。
麗華は目を閉じて、深く息を吸って――
――ポーン。
……一瞬、部屋の空気が変わった気がした。
ファからソ♯へ。いつもより、一歩だけ遠い跳躍。
夏の夕暮れの、すごく遠い国の市場の匂いみたいな。怖いのに、もう少し聴きたい音。
あたしの番「ラ」
――ポーン。
鳴った。というか、ソ♯の次にラが来ると、胸の奥で何かが「おかえり」って言った気がした。
そして雷太さんが、一人で残りを弾いた。
――シ、ド、レ、――ミ。
静寂。
あたしたちは、息を止めて布団の方を見た。
……慈念さんのいびきが、止まっていた。
「……………………今の……」
慈念さんが、布団の中で身体を起こしていた。
暗闇の中で、押し入れを見つめている。
少しだけ開いた襖の奥の、黒いケースを。
そして――
「……ミ、ファ、ソ♯、ラ……」
慈念さんが、小さく口ずさんだ。
――完璧だった。
裏返らない。震えない。一音も外さない。
いつものお経の、あのぎこちない声とは、まるで別人。
水が低いほうに流れるみたいに、声が、当たり前のようにその音に収まっていく。
「……シ、ド、レ……ミ……」
そして慈念さんは、ほとんど無意識のように、そのフレーズに言葉を載せた。
「……かん、じー、ざーい、ぼー、さー……」
――ぞくり。
背中を、何かが駆け上がった。
胃もたれじゃない。成仏の温かさでもない。
死んでからはじめて感じる、幽霊の自分が鳥肌を立ててるみたいな感触。
暗いのに、暖かい。重いのに、軽い。
「…………な、なんじゃ……今の……」
源蔵じいちゃんが、自分の腕をさすっている。
「……エモ……いえ、これは……何と言うのかしら……」
「…………ゾクゾク、だ」
雷太さんが、腕で顔を隠しながら言った。長い前髪の奥で、目元が光っていた。
「……三十年だ。……三十年、誰かにこの音を渡したかったんだ」
☆押し入れの奥の、未練
慈念さんは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり布団から出て、押し入れの襖を開けた。
黒いケースを引っ張り出して、チャックを下ろす。
出てきたのは、赤と黒の、尖った形のエレキギターだった。
ボディには、すっかり色あせた骸骨のステッカー。中学生が貼りそうなやつ。
「…………久しぶり。……弦、錆びてないのかよ」
慈念さんは、ギターを膝に載せて、指でそっと弦を撫でた。
慣れた手つきだった。
「……親父がさ、好きだったんだよ。こういうの。ネオクラシカルっていうの。
車の中で、いつもガンガン流してさ」
誰に話しているのか。たぶん、誰にも。
いや、死んだ人たちが聞いてるなんて、思ってもいないだろうけど。
「中二の時、親父のお下がりでこれもらってさ。毎日弾いてた。
骸骨のシール貼ってさ。ダサいよな。……そしたら中三の冬に、二人とも事故でさ」
慈念さんは、少しだけ笑った。泣きそうには見えなかった。
たぶん、もうたくさん泣いた後なんだと思う。
「親父の葬式でお経を読んでくれたのが、円海さんだった。
……すげえ声だった。腹の底に響いて、泣いていいんだって言われてる気がした。
……だから、行くところがなかった俺に『うちに来るか』って言ってくれた時、ああ、この人みたいになりたいって思ったんだ」
慈念さんの指が、弦の上で止まった。
「でも、俺のお経、ひでえだろ。……わかってんだ。どんなに練習しても、円海さんみたいにならない。診てもらっても、喉には異常ないってさ」
慈念さんは、ギターをじっと見下ろした。
「……たぶん、俺がまだこっちに未練があるからだ。仏の道に入るなら、こういうのは全部捨てなきゃいけないって思って、しまい込んだのに。
……捨てられなかったんだよな。押し入れの奥にしまってるだけでさ」
…………。
あたしたちは、誰も何も言えなかった。
鬼塚さんは天井を見上げていて、麗華は日傘の柄を握りしめていて、源蔵じいちゃんは鼻をすすっていた。
未練の話は、墓場の住人には少し効きすぎる。
雷太さんだけが、慈念さんの隣にしゃがみ込んで、聞こえない声で言った。
「――ばーか。未練じゃねえよ、それは。お前の声だ」
慈念さんは、もちろん気づかない。
ギターをそっとケースに戻して、でも、押し入れの奥じゃなくて、文机の横に立てかけた。
それから布団に潜り込んで――しばらくして、またいびきをかき始めた。
――あたしたちが部屋を出たとき。
暗い廊下の端に、大きな影が立っていた。
円海さんだった。
寝間着のまま、柱に肩を預けて、閉じた襖をじっと見つめている。
いつからそこにいたのか。どこから聞いていたのか。
円海さんは、何も言わずに、自分の部屋に戻っていった。
あたしは、なんとなく気になって、その後を追いかけた。
円海さんの部屋の文机の引き出しから、一枚の写真が出てきた。
色あせたカラー写真。長髪にベルボトムの若者が四人。
その真ん中で、肩から巨大なベースを下げて、歯を見せて笑っている、いかつい顔の青年。
写真の裏には、マジックで書かれた文字。
『一九七八 最後のライヴ』
円海さんは、その写真をしばらく見つめて、それから、少しだけ笑った。
「…………ゲホッ。……ゴホゴホッ」
そして、激しく咳き込んだ。
――永代供養の合同法要まで、あと三日だった。
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