↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
墓場ぐらしのサダコさん  作者: 則本潮


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/104

「小僧のお経は、ハーモニックマイナー。」(後半)

☆声の出ない住職

合同法要の朝。

「…………………………」

本堂の前で、円海さんが口をパクパクさせていた。

声が、出ていなかった。


「…………シューッ……シュー……」

出るのは、空気が漏れる音だけだ。三日前の咳が、対局的に悪化したらしい。


「……円海さん、声が……」

慈念さんが、青い顔で円海さんを見上げている。

円海さんは、筆で半紙にさらさらと何かを書いて、慈念さんに見せた。


『お前が読め』


「…………………えっ」


――墓地中が、凍りついた。


「……慈念さんが、一人で?」

「檀家三十人の前で?」

「合同法要って、一時間はあるぞ?」

「……死ぬのう、わしら」

「もう死んでるよ」

「……成仏できんで死ぬのう……」


墓地の霊たちは、各々の墓の前で座布団を敷き、胃薬(お供え物だ)を用意し、耳を塎ぐ落ち葉を耳に詰め始めた。

防災訓練みたいな手間間のよさだった。


「……雷太さん」

あたしは、本堂の屋根の上に座っている雷太さんを見上げた。


「……ああ。来たな」

雷太さんは、骸骨の指輪を、指でくるりと回した。

「――本番だ」


☆合同法要

十時。

本堂には、喪服の檀家さんたちが三十人。

最前列には、檀家総代の権藤さんが、腕を組んで座っている。

この寺で一番口うるさい、八十二歳のおじいさんだ。


「……住職さんは、どうしたんじゃ」

「……風邪で、声が……。本日は、わたくし慈念が……」


権藤さんの眉間に、深いしわが寄った。

慈念さんのお経の評判は、檀家さんの間でも、幽霊の間と同じくらい有名だった。


円海さんは、本堂の奥の隣に、やつれた顔で座っている。

慈念さんは、震える手で経本を開き、深く息を吸った。


こつん、と木魚が鳴る。

「――かっ、観自在っ……菩薩ぅ……」


――ずしっ。


墓地中の霊が、座布団の上で、いっせいに崩れ落ちた。


いつもより、ひどい。

緊張で、慈念さんの声は、いつも以上に円海さんの節を必死で追いかけていた。

追いかければ追いかけるほど、喉はソ♯に引っ張られ、引っ張られた声が、読経の合間に鳴らされるおりんの「ソ」と、正面衝突する。


――チーン。


――ぎゃーぃ。


ウワン、ウワン、ウワン。


「うっ……ごきげん…………」

「小僧がぁ…………」


檀家さんたちも、微妙に顔をしかめている。

権藤さんの眉間のしわは、もう峡谷になっていた。


「――違う。それじゃねえ」


雷太さんが、屋根から飛び降りた。

「お前の音じゃねえ。……おい、墓場の連中! 起きろ! 全員だ!」

雷太さんの声が、墓地中に響いた。

死んでから三十年、一度も大声を出したことのない人の、ステージの声だった。


「本堂には、おりんが三つある。

左の小さいのが『ミ』、右の古いのが『シ』、奥の鉄のやつが『レ』だ。三年間、毎日聴いてたから間違いねえ」


「……ミと、シと、レ……?」


あたしは、地面に引かれた五本の線を思い出した。

「――属七の和音。ミ・ソ♯・シ・レ……!」

「そうだ。三つ同時に鳴らせば、足りないのはソ♯だけだ。

……で、ソ♯は――」

雷太さんが、本堂の真ん中で震えている慈念さんを、まっすぐ指差した。


「――あいつが持ってる」


…………。


「だが弦と違って、おりんは重い。一人じゃ鳴らせねえ。……全員の力がいる」

雷太さんは、頭を下げた。死んでから三十年、誰ともつるまなかった人が、墓地中の霊に向かって。


「……頼む」


――最初に立ち上がったのは、源蔵じいちゃんだった。

「……わしは、『ミ』じゃったのう」

次に鬼塚さん。「……走り屋のタイミング、見せてやんよ」。

麗華が日傘を閉じ、トメばあちゃんがお玉じゃくしを置き、ナナシさんが腰をさすりながら立ち上がる。

西園寺家のご先祖様たちが、よその家のおじいちゃんが、おばあちゃんが。

落ち葉の耳栓を抜いて、墓地中の霊が、本堂に集まっていく。

五十人が、三つに分かれて、三つのおりんを取り囲んだ。


あたしは、『ミ』のおりんの前。源蔵じいちゃんの隣。

「……慈念の読経が、一節終わる。その切れ目でいくぞ」

雷太さんが、手を上げる。

慈念さんの裏返った声が、一節の最後の音に向かって、さまよいながら漕ぎ着こうとする。


――今だ。

「いっけええええええええ!!!」


☆属七

――ゴォォオオオン…………!!

三つのおりんが、同時に鳴った。


誰も触れていないのに。木魚の撥も、りん棒も、動いていないのに。

三つの銅の器が、内側から震えるようにして、深く、長く、鳴り響いた。

檀家さんたちが、びくりと顔を上げる。


ミと、シと、レ。

不安定な響きだった。どこかに行きたがっている、何かを待っている、完成していない響き。

ぽっかりと空いた、ひとつ分の穴。

慈念さんの声が、止まった。

顔を上げて、三つのおりんを見つめている。


――聴いたことがある。

そういう顔だった。三日前の夜中に。それよりずっと前の、車の中で。

慈念さんの喉が、小さく動いた。

そして――円海さんの節を、手放した。

「――かん、じー、ざーい、ぼー、さー――」


――ソ♯。


慈念さんの声が、ぽっかり空いた穴に、ぴたりとはまった。


ミ・ソ♯・シ・レ。

属七の和音が、本堂の中で完成した。


――ぞくっっっ。

背中を、あの夜の十倍の何かが駆け上がった。


さっきまで黒板を引っかくみたいに泣いていた同じ音が、今は、腹の底で笑っている。

対局的に気持ち悪かった半音のずれが、正しい床の上に乗った瞬間、引き手を引かれたたってしまったように、とんでもなく気持ちいい音に化けた。


慈念さんの声は、もう裏返らなかった。


内側から溢れるように、一音一音が、ハーモニックマイナーの階段を上っていく。

ファからソ♯への、一歩遠い跳躍。遠い国の市場の匂い。

不安で、美しくて、おっそろしくて、でもその奥に、この世のものじゃない温かさがある。


こつん、こつん、と、木魚が拍を刻む。

いつもなら走るかもたつか、どちらかだった慈念さんの木魚が、今は心臓の鼓動みたいに、正確に、重く、強く。


――檀家さんたちは、息を呑んでいた。

権藤さんの眉間の峡谷が、ゆっくりと平野に戻っていく。


そのときだった。

「――ォォオオオオオ…………」

本堂の奥から、地鳴りのような低い音が湧き上がった。


円海さんだった。

声は潰れている。言葉にはならない。

でも、潰れてかすれたその声が、ひたすら慈念さんの下で『ミ』を鳴らし続けている。

歪んで、ざらついて、弦の太い楽器に強烈な歪みをかけたみたいな音。


「……ベースだ……」

雷太さんが、呻くように言った。


「しかも歪みのかかった、ヘヴィな……。あの坊主……やってやがったな……!」

慈念さんが、一瞬だけ円海さんの方を見た。円海さんはやつれた顔のまま、目を閉じて、小さく頷いた。


――読め。お前の節で。

慈念さんの声が、もう一段、深くなった。


――墓地中の霊が、震えていた。

胃もたれじゃない。

成仏の温かさでもない。足元は光らないし、体は浮かないし、重くもならない。

ただ――首が、動く。勝手に。木魚の拍に合わせて、前に、後ろに。


「…………な、なんじゃ、これ、首が、止まらん……!!」


「……ヘッドバンギングだ」


雷太さんが、達観した顔で言った。その長い黒髪は、もう扇風機みたいに回転していた。


「身体が、音に応えてんだ。……三十年ぶりだぜ、この感じは……!」

源蔵じいちゃんが首を振る。鬼塚さんがリーゼントを振り下ろす。


麗華が「はしたない……ですわ……」と言いながら、日傘ごと振っている。

ナナシさんは腰を押さえながら小刻みに。

トメばあちゃんは――にこにこしながら、誰よりも激しく。


あたしも、止まらなかった。


そして――


――スポーン。

最初に飛んだのは、鬼塚さんの首だった。


――スポン、スポポポポポーン。

続いて源蔵じいちゃんの首が、西園寺家のご先祖様の首が、よその家のおじいちゃんの首が。

墓地中の首が、本堂の天井まで舞い上がった。五十個の首が、木魚の拍に合わせて、天井の下で踊っている。

首なしの体たちは、それでも拍を取り続けている。


――地獄絵図なのか、極楽浄土なのか、もうわからなかった。


ただ一匹、賽銭箱の上で丸くなっていたおはぎだけが、心の底からどうでもよさそうな顔で、その光景を眺めていた。

……尻尾の先だけが、なぜか木魚の拍を刻んでいたけれど。


慈念さんの声が、最後の一節に向かって、高く、高く上っていく。

ミから、ソ♯へ。ソ♯は、行きたがっている。

ずっと、ずっと、行きたがっていた。たった半音上の、帰るべき場所に。


「――――心 経 ――――」


――ラ。


帰ってきた。

円海さんの潰れた声が、同時に『ラ』に降りて、慈念さんの声を下からしっかりと受け止めた。

落ちてきたお嬢様を、ひょろりとした腕が受け止めるみたいに。


――おかえり。


そう言われた気がした。

天井の五十個の首が、ぴたりと止まった。


そして――


――チーン。


慈念さんの手が、おりんをひとつ打った。

音が、秋の空に溶けていく。

静寂。


――天井から、五十個の首が、ボトボトと墓地中に降ってきた。


☆借り物の節

法要が終わった後。


「……慈念さん」

帰り際、権藤さんが、杖をついて慈念さんの前に立った。

慈念さんの肩がびくりと跳ねる。

権藤さんはしばらく慈念さんの顔を見て、それから、ぶっきらぼうに言った。


「…………八十二年生きとるが、あんなお経ははじめて聴いたわい。……死んだ婆さんが、後ろで踊っとる気がしたわい」


――踊ってました。首、飛んでました。


権藤さんはそれだけ言うと、さっさと山門を出ていった。

出ていく権藤さんの後ろで、権藤家の婆さまの霊が、手を振っていた。

首はまだ、少し傾いていた。


――その夕方。

誰もいなくなった本堂で、円海さんと慈念さんが、向かい合って座っていた。

円海さんは、袖から一枚の写真を取り出して、慈念さんの前に置いた。

長髪とベルボトムと、巨大なベース。


「…………えっ。これ……円海さん……?」


円海さんは、かすれた声で、ゆっくり言った。

「……わしもな、昔、これをやっとった。坊主になる時、捨てようとして、捨てられんかった。……じゃが、捨てんでよかったと、今日思った」


円海さんは、慈念さんの喉元を、指でとんと叩いた。


「――声は、仏様からの預かりもんじゃ。借りもんの節で読むな。お前の節で読め」

慈念さんの目から、ぽろっと涙がこぼれた。


「…………はいっ……!」


――言い切った。最後の音まで、裏返らなかった。

円海さんは小さく頷いて、立ち上がりかけて――ふと、振り返った。

「――ただし。普段の勤行は、基本を身につけろ。

基本があっての、お前の節じゃ。それはそれ、これはこれじゃ」


「…………はい。」

やっぱり、最後の音は裏返った。


――翌朝。


――ごおん。


「かっ、観……自ざいっ……!!」

墓地中に、胃もたれの波が押し寄せた。


「「「「……チッ」」」」

いつもの舌打ちが、秋の朝に響き渡る。

「……良かったですわ……安全装置は、健在ですわ……」

草むらに転がった麗華が、青い顔で、心底ほっとしたようにつぶやいた。

その草むらの隣で、黒い革ジャンの男の人が、大の字に転がっていた。

顔は青い。でも、前髪の奥の口元は、笑っていた。


「……あいつ、誰にも教わってねえのに、導音から逃げねえんだよな。……来年あたり、押し入れからアンプが出てくるぜ」


雷太さんは、空中で見えないギターを、ひとつかき鳴らした。


――その日から、墓場総会には、出席者が一人増えた。

墓場は今日も、成仏しない。


――チーン。

(第四話 完)


最後までお読みいただきありがとうございました。

第四話「小僧のお経は、ハーモニックマイナー。」でした。

新キャラの轟さんはイケメンです。

よろしければ、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。