「小僧のお経は、ハーモニックマイナー。」(後半)
☆声の出ない住職
合同法要の朝。
「…………………………」
本堂の前で、円海さんが口をパクパクさせていた。
声が、出ていなかった。
「…………シューッ……シュー……」
出るのは、空気が漏れる音だけだ。三日前の咳が、対局的に悪化したらしい。
「……円海さん、声が……」
慈念さんが、青い顔で円海さんを見上げている。
円海さんは、筆で半紙にさらさらと何かを書いて、慈念さんに見せた。
『お前が読め』
「…………………えっ」
――墓地中が、凍りついた。
「……慈念さんが、一人で?」
「檀家三十人の前で?」
「合同法要って、一時間はあるぞ?」
「……死ぬのう、わしら」
「もう死んでるよ」
「……成仏できんで死ぬのう……」
墓地の霊たちは、各々の墓の前で座布団を敷き、胃薬(お供え物だ)を用意し、耳を塎ぐ落ち葉を耳に詰め始めた。
防災訓練みたいな手間間のよさだった。
「……雷太さん」
あたしは、本堂の屋根の上に座っている雷太さんを見上げた。
「……ああ。来たな」
雷太さんは、骸骨の指輪を、指でくるりと回した。
「――本番だ」
☆合同法要
十時。
本堂には、喪服の檀家さんたちが三十人。
最前列には、檀家総代の権藤さんが、腕を組んで座っている。
この寺で一番口うるさい、八十二歳のおじいさんだ。
「……住職さんは、どうしたんじゃ」
「……風邪で、声が……。本日は、わたくし慈念が……」
権藤さんの眉間に、深いしわが寄った。
慈念さんのお経の評判は、檀家さんの間でも、幽霊の間と同じくらい有名だった。
円海さんは、本堂の奥の隣に、やつれた顔で座っている。
慈念さんは、震える手で経本を開き、深く息を吸った。
こつん、と木魚が鳴る。
「――かっ、観自在っ……菩薩ぅ……」
――ずしっ。
墓地中の霊が、座布団の上で、いっせいに崩れ落ちた。
いつもより、ひどい。
緊張で、慈念さんの声は、いつも以上に円海さんの節を必死で追いかけていた。
追いかければ追いかけるほど、喉はソ♯に引っ張られ、引っ張られた声が、読経の合間に鳴らされるおりんの「ソ」と、正面衝突する。
――チーン。
――ぎゃーぃ。
ウワン、ウワン、ウワン。
「うっ……ごきげん…………」
「小僧がぁ…………」
檀家さんたちも、微妙に顔をしかめている。
権藤さんの眉間のしわは、もう峡谷になっていた。
「――違う。それじゃねえ」
雷太さんが、屋根から飛び降りた。
「お前の音じゃねえ。……おい、墓場の連中! 起きろ! 全員だ!」
雷太さんの声が、墓地中に響いた。
死んでから三十年、一度も大声を出したことのない人の、ステージの声だった。
「本堂には、おりんが三つある。
左の小さいのが『ミ』、右の古いのが『シ』、奥の鉄のやつが『レ』だ。三年間、毎日聴いてたから間違いねえ」
「……ミと、シと、レ……?」
あたしは、地面に引かれた五本の線を思い出した。
「――属七の和音。ミ・ソ♯・シ・レ……!」
「そうだ。三つ同時に鳴らせば、足りないのはソ♯だけだ。
……で、ソ♯は――」
雷太さんが、本堂の真ん中で震えている慈念さんを、まっすぐ指差した。
「――あいつが持ってる」
…………。
「だが弦と違って、おりんは重い。一人じゃ鳴らせねえ。……全員の力がいる」
雷太さんは、頭を下げた。死んでから三十年、誰ともつるまなかった人が、墓地中の霊に向かって。
「……頼む」
――最初に立ち上がったのは、源蔵じいちゃんだった。
「……わしは、『ミ』じゃったのう」
次に鬼塚さん。「……走り屋のタイミング、見せてやんよ」。
麗華が日傘を閉じ、トメばあちゃんがお玉じゃくしを置き、ナナシさんが腰をさすりながら立ち上がる。
西園寺家のご先祖様たちが、よその家のおじいちゃんが、おばあちゃんが。
落ち葉の耳栓を抜いて、墓地中の霊が、本堂に集まっていく。
五十人が、三つに分かれて、三つのおりんを取り囲んだ。
あたしは、『ミ』のおりんの前。源蔵じいちゃんの隣。
「……慈念の読経が、一節終わる。その切れ目でいくぞ」
雷太さんが、手を上げる。
慈念さんの裏返った声が、一節の最後の音に向かって、さまよいながら漕ぎ着こうとする。
――今だ。
「いっけええええええええ!!!」
☆属七
――ゴォォオオオン…………!!
三つのおりんが、同時に鳴った。
誰も触れていないのに。木魚の撥も、りん棒も、動いていないのに。
三つの銅の器が、内側から震えるようにして、深く、長く、鳴り響いた。
檀家さんたちが、びくりと顔を上げる。
ミと、シと、レ。
不安定な響きだった。どこかに行きたがっている、何かを待っている、完成していない響き。
ぽっかりと空いた、ひとつ分の穴。
慈念さんの声が、止まった。
顔を上げて、三つのおりんを見つめている。
――聴いたことがある。
そういう顔だった。三日前の夜中に。それよりずっと前の、車の中で。
慈念さんの喉が、小さく動いた。
そして――円海さんの節を、手放した。
「――かん、じー、ざーい、ぼー、さー――」
――ソ♯。
慈念さんの声が、ぽっかり空いた穴に、ぴたりとはまった。
ミ・ソ♯・シ・レ。
属七の和音が、本堂の中で完成した。
――ぞくっっっ。
背中を、あの夜の十倍の何かが駆け上がった。
さっきまで黒板を引っかくみたいに泣いていた同じ音が、今は、腹の底で笑っている。
対局的に気持ち悪かった半音のずれが、正しい床の上に乗った瞬間、引き手を引かれたたってしまったように、とんでもなく気持ちいい音に化けた。
慈念さんの声は、もう裏返らなかった。
内側から溢れるように、一音一音が、ハーモニックマイナーの階段を上っていく。
ファからソ♯への、一歩遠い跳躍。遠い国の市場の匂い。
不安で、美しくて、おっそろしくて、でもその奥に、この世のものじゃない温かさがある。
こつん、こつん、と、木魚が拍を刻む。
いつもなら走るかもたつか、どちらかだった慈念さんの木魚が、今は心臓の鼓動みたいに、正確に、重く、強く。
――檀家さんたちは、息を呑んでいた。
権藤さんの眉間の峡谷が、ゆっくりと平野に戻っていく。
そのときだった。
「――ォォオオオオオ…………」
本堂の奥から、地鳴りのような低い音が湧き上がった。
円海さんだった。
声は潰れている。言葉にはならない。
でも、潰れてかすれたその声が、ひたすら慈念さんの下で『ミ』を鳴らし続けている。
歪んで、ざらついて、弦の太い楽器に強烈な歪みをかけたみたいな音。
「……ベースだ……」
雷太さんが、呻くように言った。
「しかも歪みのかかった、ヘヴィな……。あの坊主……やってやがったな……!」
慈念さんが、一瞬だけ円海さんの方を見た。円海さんはやつれた顔のまま、目を閉じて、小さく頷いた。
――読め。お前の節で。
慈念さんの声が、もう一段、深くなった。
――墓地中の霊が、震えていた。
胃もたれじゃない。
成仏の温かさでもない。足元は光らないし、体は浮かないし、重くもならない。
ただ――首が、動く。勝手に。木魚の拍に合わせて、前に、後ろに。
「…………な、なんじゃ、これ、首が、止まらん……!!」
「……ヘッドバンギングだ」
雷太さんが、達観した顔で言った。その長い黒髪は、もう扇風機みたいに回転していた。
「身体が、音に応えてんだ。……三十年ぶりだぜ、この感じは……!」
源蔵じいちゃんが首を振る。鬼塚さんがリーゼントを振り下ろす。
麗華が「はしたない……ですわ……」と言いながら、日傘ごと振っている。
ナナシさんは腰を押さえながら小刻みに。
トメばあちゃんは――にこにこしながら、誰よりも激しく。
あたしも、止まらなかった。
そして――
――スポーン。
最初に飛んだのは、鬼塚さんの首だった。
――スポン、スポポポポポーン。
続いて源蔵じいちゃんの首が、西園寺家のご先祖様の首が、よその家のおじいちゃんの首が。
墓地中の首が、本堂の天井まで舞い上がった。五十個の首が、木魚の拍に合わせて、天井の下で踊っている。
首なしの体たちは、それでも拍を取り続けている。
――地獄絵図なのか、極楽浄土なのか、もうわからなかった。
ただ一匹、賽銭箱の上で丸くなっていたおはぎだけが、心の底からどうでもよさそうな顔で、その光景を眺めていた。
……尻尾の先だけが、なぜか木魚の拍を刻んでいたけれど。
慈念さんの声が、最後の一節に向かって、高く、高く上っていく。
ミから、ソ♯へ。ソ♯は、行きたがっている。
ずっと、ずっと、行きたがっていた。たった半音上の、帰るべき場所に。
「――――心 経 ――――」
――ラ。
帰ってきた。
円海さんの潰れた声が、同時に『ラ』に降りて、慈念さんの声を下からしっかりと受け止めた。
落ちてきたお嬢様を、ひょろりとした腕が受け止めるみたいに。
――おかえり。
そう言われた気がした。
天井の五十個の首が、ぴたりと止まった。
そして――
――チーン。
慈念さんの手が、おりんをひとつ打った。
音が、秋の空に溶けていく。
静寂。
――天井から、五十個の首が、ボトボトと墓地中に降ってきた。
☆借り物の節
法要が終わった後。
「……慈念さん」
帰り際、権藤さんが、杖をついて慈念さんの前に立った。
慈念さんの肩がびくりと跳ねる。
権藤さんはしばらく慈念さんの顔を見て、それから、ぶっきらぼうに言った。
「…………八十二年生きとるが、あんなお経ははじめて聴いたわい。……死んだ婆さんが、後ろで踊っとる気がしたわい」
――踊ってました。首、飛んでました。
権藤さんはそれだけ言うと、さっさと山門を出ていった。
出ていく権藤さんの後ろで、権藤家の婆さまの霊が、手を振っていた。
首はまだ、少し傾いていた。
――その夕方。
誰もいなくなった本堂で、円海さんと慈念さんが、向かい合って座っていた。
円海さんは、袖から一枚の写真を取り出して、慈念さんの前に置いた。
長髪とベルボトムと、巨大なベース。
「…………えっ。これ……円海さん……?」
円海さんは、かすれた声で、ゆっくり言った。
「……わしもな、昔、これをやっとった。坊主になる時、捨てようとして、捨てられんかった。……じゃが、捨てんでよかったと、今日思った」
円海さんは、慈念さんの喉元を、指でとんと叩いた。
「――声は、仏様からの預かりもんじゃ。借りもんの節で読むな。お前の節で読め」
慈念さんの目から、ぽろっと涙がこぼれた。
「…………はいっ……!」
――言い切った。最後の音まで、裏返らなかった。
円海さんは小さく頷いて、立ち上がりかけて――ふと、振り返った。
「――ただし。普段の勤行は、基本を身につけろ。
基本があっての、お前の節じゃ。それはそれ、これはこれじゃ」
「…………はい。」
やっぱり、最後の音は裏返った。
――翌朝。
――ごおん。
「かっ、観……自ざいっ……!!」
墓地中に、胃もたれの波が押し寄せた。
「「「「……チッ」」」」
いつもの舌打ちが、秋の朝に響き渡る。
「……良かったですわ……安全装置は、健在ですわ……」
草むらに転がった麗華が、青い顔で、心底ほっとしたようにつぶやいた。
その草むらの隣で、黒い革ジャンの男の人が、大の字に転がっていた。
顔は青い。でも、前髪の奥の口元は、笑っていた。
「……あいつ、誰にも教わってねえのに、導音から逃げねえんだよな。……来年あたり、押し入れからアンプが出てくるぜ」
雷太さんは、空中で見えないギターを、ひとつかき鳴らした。
――その日から、墓場総会には、出席者が一人増えた。
墓場は今日も、成仏しない。
――チーン。
(第四話 完)
最後までお読みいただきありがとうございました。
第四話「小僧のお経は、ハーモニックマイナー。」でした。
新キャラの轟さんはイケメンです。
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