「大工の初仕事」(後半)
⭐︎坂道のバケツ
一月十一日。成人の日。
その日は、月曜日だった。
――ごおん。
「……桜庭、源蔵さん。桜庭、トメさん。……桜庭、貞子さん」
慈念さんの声が、いつものように、桜庭家の名前を呼んだ。
「おう」
「はあい」
「はーい」
三人で返事をした、そのすぐあと。
山門をくぐってきたのは、パパだった。
一人だ。片手に、水の入ったバケツを提げている。
「……あれ、パパ? 一人?」
パパは、桜庭家之墓の前にバケツを置くと、コートを脱いで、袖をまくった。
「……祝日だからな。たまには、ちゃんと掃除しないと」
たわしで、墓石を、ごしごしとこする。
花立ての水を替える。
落ち葉を、一枚ずつ拾う。
不器用だけど、丁寧な手つきだった。
「……この坂、きついよな」
パパが、腰を伸ばしながら、山門からの砂利道を振り返った。
桜庭家之墓は、墓地の一番奥の、ちょっと傾いた区画にある。
山門からは、ずっと、ゆるい上り坂だ。
「ばあちゃん、毎週、ここ上ってたんだよな。じいちゃんが死んでから、四年間。……バケツ提げて、一人で」
――縁側で、源蔵じいちゃんが、顔を上げた。
「最後のほうは、杖ついてさ。俺、何回か、車で送るよって言ったんだけど、『いいの、歩きたいの』って。……仕事が忙しいのを言い訳にして、結局、一緒に来たの、二回くらいだったな」
パパは、墓石を拭く手を、止めた。
「ばあちゃん、帰り際、いつも墓に言ってたよ。『じゃあね、お父さん。また来週』って。……それから、俺のほうを向いて、笑うんだ」
パパは、トメばあちゃんの口調を、少しだけ真似した。
「『あの人、口下手だから。たぶん、わたしが行くまで、何にも言わずに待ってるわ』って」
――トメばあちゃんが、縁側で、口元を押さえた。
源蔵じいちゃんは、ゆっくり、立ち上がった。
そして、砂利道に置かれたバケツの前に、しゃがみこんだ。
持ち手に、手を伸ばす。
――すうっ。
指が、通り抜けた。
もう一度。
――すうっ。
「……知っとった」
源蔵じいちゃんが、かすれた声で言った。
「毎週、見とった。この縁側から。……坂の下に、婆さんが見えるたびにな。……バケツが、重そうでのう」
源蔵じいちゃんは、自分の手のひらを、じっと見た。
「……あのバケツ、一回も、持ってやれんかった」
あたしは、何も言えなかった。
パパは、最後に、墓石に水をかけて、手を合わせた。
「……じいちゃん。衣桁、結局買えてないんだ。ごめんな。……ばあちゃんのこと、そっちで、ちゃんと労ってやってくれよ」
それから、空になったバケツを提げて、坂を下っていった。
――軽くなったバケツが、からん、と小さく鳴った。
⭐︎割り箸三百十二本
その夜。
「――できたぞ」
源蔵じいちゃんの声で、墓場中の霊が、桜庭家之墓の前に集まった。
縁側の真ん中に、それは、立っていた。
割り箸を組んだ、衣桁だった。
二本の脚。
横に渡した、二本の棹。
釘は一本もない。
ほぞとほぞ穴が、ぴたりと噛み合って、少しも揺れない。
棹の両端には、雷太さんのピックが、飾り金具みたいにはめ込まれていた。
「……すご……」
「……ピック、似合ってる」
雷太さんが、ぼそっと、満足そうに言った。
「――さだ。掛けてみい」
あたしは、肩の振袖を、そっと脱いで、衣桁に掛けた。
――ふわり。
桜色の袖が、両側に、大きく広がった。
袖の内側で、二十枚の桜の花びらが、月明かりに、きらきら光った。
真ん中には、『貞子』の二文字。
「……きれい」
誰かが、そう言った。
たぶん、みんなが、そう思っていた。
――ふわっ。
「――あ、やば」
「――貞子さん、足ですわ!」
「――全員、気をつけ!!」
――ぴしっ。すとん。
ふみ先生の号令で、あたしは、縁側に着地した。
「……ひいじいちゃん、ありがと。……ほんとに、ありがと」
「……おう」
源蔵じいちゃんは、照れくさそうに、そっぽを向いた。
それから、懐から、もう一つ、何かを取り出した。
割り箸を、何本もつないだ、細長い棒。
両端に、小さな脚がついている。
「……余ったから、作った」
源蔵じいちゃんは、それを、縁側の上がり口の横に、そっと据えた。
――手すりだった。
坂を上りきった人が、縁側に上がるときに、つかまる場所。
「……婆さん」
源蔵じいちゃんは、トメばあちゃんのほうを、見なかった。
手すりを、じっと見たまま、言った。
「……今さら、遅いがのう」
「…………」
「……一人で、坂、上らせて、すまんかった。……毎週、来てくれて、ありがとうのう」
口が、もごもごと動いた。
それから、二十年以上、どこかに引っかかっていた言葉が、ようやく、ぽろりと落ちた。
「……あの日、ほんとうは、『待っとった』と、言いたかったんじゃ」
トメばあちゃんは、しばらく、黙っていた。
それから、手すりに、そっと手を置いた。
必要のない手すりに、ちゃんと、体重をかけて。
そして、源蔵じいちゃんの、いつもの大声を、そっと真似した。
「――『……遅かったのう』」
源蔵じいちゃんが、目を丸くした。
トメばあちゃんは、にこにこ笑っていた。
笑いながら、泣いていた。
――ふわあっ。
トメばあちゃんの体から、朝日みたいな光が、溢れ出した。でも、足は、ちゃんと縁側についていた。
代わりに、浮き上がったのは、源蔵じいちゃんのほうだった。
「――お、おい、なんじゃこれは!?」
「ひいじいちゃん、足! 足!」
――こつん。
トメばあちゃんのお玉じゃくしが、源蔵じいちゃんの頭に、いつもよりずっと、やさしく落ちた。
「……まだ、行かせませんよ。お父さん」
すとん、と、源蔵じいちゃんが、着地した。
⭐︎傾いてんぞ
翌朝。
「――おい、ジジイ」
鬼塚さんが、桜庭家之墓の縁側をのぞきこんで、にやにやしていた。
「その衣桁、ちょっと傾いてんぞ」
「――傾いとらんわ! 地面が傾いとるんじゃ!」
「だいたい、あんたの増築も――」
「言うたな、この不良がぁぁぁ!!」
――ごつん。
――すぽーん。
「――おまえさんたち」
――かぽーん。
いつもの朝。いつもの音。
本堂のほうから、慈念さんのお経が流れてくる。
「「「……チッ」」」
縁側の衣桁では、桜色の振袖が、冬の朝日を浴びていた。
その横の手すりに、トメばあちゃんが、毎朝、わざわざつかまって縁側に上がるようになったことを、源蔵じいちゃんは、気づかないふりをしている。
縁側の下で、おはぎが、ふわあ、と大きなあくびをした。
墓場は今日も、成仏しない。
――割り箸三百十二本の衣桁は、今日も、ちょっとだけ傾いている。
(第二十話 完)
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