番外編-麗華- 第三話「白い日傘が届くまで」(後半)
☆白い日傘
九月。秋のお彼岸の、前の日。
あの子は、朝から、桜庭家之墓の縁側で、そわそわと落ち着かない様子でした。
明日は、ご家族がいらっしゃる。
そのことで、頭がいっぱいのようでした。
その日は、勝負の申し込みも、ありませんでしたの。
――ですから、その午後のことを、あの子は、何も知りません。
☆☆☆
「――麗華大伯母様。来たよ」
西園寺家之墓の前に、美月さんが立っていらっしゃいました。
もう、茶色いおかっぱの小さな女の子ではありません。
茶色いボブの、明るい大人の女の人。
その手に、細長い包みを抱えて。
美月さんは、墓石を拭き、花を生け、線香を立ててから、その包みを、そっと解きました。
白い、日傘でした。
縁に、細やかなレース。柄は、つややかな飴色の木。
「……覚えてる? 私、ちっちゃい頃、おばあちゃんに聞いたの。大伯母様、日傘差して歩くのが好きな、お洒落な人だったって」
――覚えておりますわ。
「ひがさ。……ふーん」
あの小さなお声を。
「それでね、大人になってから、もう一つ、聞いたの。……大伯母様、雨の夜に、傘も持たないで出かけて、それで風邪をこじらせたんだって」
――――。
「だから、今度は、傘。……日傘だけど。晴雨兼用っていってね、晴れの日も、雨の日も、使えるやつにしたの」
美月さんは、白い日傘を、墓石にそっと立て掛けました。
「……もう、濡れないでね。大伯母様」
その瞬間。
わたくしの手の中に、ふわりと、もう一本の白い日傘が、現れました。
供えられたものは、こちらにも、届くのです。
九十年、この墓地で、何度も見てきたこと。
でも、こんなに、手が震えたことは、ありませんでしたの。
「……それとね、大伯母様。今度、紹介したい人がいるの。……秋になったら、一緒に来るね」
美月さんは、少し照れたように笑って、山門の向こうへ帰っていかれました。
――その「紹介したい人」が、どなたの曾孫さんなのか。
それは、また、別のお話ですわ。
☆☆☆
わたくしは、白い日傘を、ゆっくりと開きました。
ぱん、と、小さな音がしました。
頭上に、白い屋根ができました。
十五夜の夜、わたくしは、傘を持っておりませんでした。
小さなトランクを抱えるのに、両手がふさがっていたから。
それに、月を見るはずの夜に、雨が降るなどとは、思ってもおりませんでしたから。
九十年。
九十年かかって、ようやく、傘が届きましたの。
「…………っ」
西園寺の娘は、人前で泣いてはなりません。
――でも。
日傘の下は、人前では、ございませんわね。
わたくしは、日傘を深く差して、九十年ぶん、少しだけ、泣きました。
金木犀の枝の上で、あの猫が、首をこてんとかしげて、それを見ておりました。
その日だけは、あくびをいたしませんでしたわ。
☆前夜、背中合わせ
その夜。
わたくしは、日傘を西園寺家之墓に置いたまま、桜庭家之墓へ参りました。
日傘は、明日の朝、お見せするつもりでしたの。
勝負の続きとして。
あの子は、縁側の隅で、膝を抱えておりました。
あの雨の夜と、同じ格好で。
でも、今夜は、空に星が出ておりました。
わたくしは、何も申し上げずに、墓石の反対側に回って、腰を下ろしました。
墓石一つ分の、背中合わせ。
「……麗華でしょ」
「……通りがかっただけですわ」
「……ふっ。知ってる」
あの子は、小さく笑いました。
しばらく、虫の声だけが聞こえておりました。
「……明日さ、ママ、来るかな」
「……いらっしゃいますわ。きっと」
「……また、黙ったままかな」
――それには、お答えできませんでした。
わたくしにも、わからないことでしたから。
「……ねえ。麗華ってさ、なんでずっと、あたしのこと、貞子って呼ぶの」
あの子は、一年近く経って、初めて、それを尋ねました。
「……お名前は、呼ばれるためにあるのですわ」
「それは何回も聞いた」
「…………」
わたくしは、少しだけ考えて、それから、本当のことを、半分だけ申し上げました。
「……昔、お名前を伺いそびれた方が、おりましたの。……その方は、ご自分のお名前を、忘れてしまわれた。……ですから、わたくしは、もう、一人もそうさせたくないのですわ」
「…………」
あの子は、長いこと、黙っておりました。
それから、ぶっきらぼうな、でも、とても小さな声で。
「……ふーん。……明日さ、ママに、名前、呼ばれたいな。……どっちでもいいから」
――どっちでもいい。
あの子がそうおっしゃったのは、それが、初めてでしたの。
「……待ちましょう」
「……うん」
「待つのは、得意ですの」
「……うん。知ってる」
その夜、わたくしたちは、一晩じゅう、墓石を挟んで、二人で待ちました。
九十年前のあの夜とは、何もかもが、違う夜でした。
☆あの朝
翌朝。
「――こらぁぁぁ鬼塚の小僧ぉぉぉ!!」
いつもの声。いつもの、スポーン。
わたくしは、西園寺家之墓の前で、白い日傘を、たっぷりと広げておりました。
背筋を伸ばして。顔を上げて。
砂利道の向こうから、あの子が、前髪をいじりながら歩いてきます。
そして、わたくしの姿を見つけて、ぱっと、お顔を輝かせました。
「麗華、おはよー。てか今日の日傘かわいいじゃん」
――――。
「でしょう? 曾孫が昨日、お供えしてくださったの。
こちらですと、正直……「エモい」ですわね」
「言いたいだけでしょそれ」
「ええ。貞子さんに教わってから、もう三百回は使いましたわ」
――皆様。
この「エモい」だけは。
三百回のうち、この一回だけは。
間違いではなかったと、わたくしは、今でも思っておりますの。
「では貞子さん、先日の勝負の決着を。どちらがあの殴り合いを先に止められるか」
「え、何その勝負。聞いてない」
「参りますわよ!」
わたくしは、日傘を閉じて、殴り合うお二人の間に、優雅に割って入りました。
――そこから先のことは、皆様、もうご存じですわね。
その日の夕方、あの子のお母様が、初めて、墓前で口を開かれたことも。
あの子が、その日、何を受け取ったのかも。
わたくしは、西園寺家之墓の前で、白い日傘の陰から、それを、ずっと見ておりました。
少しだけ、泣きましたけれど。
日傘の下は、人前ではございませんもの。
☆金木犀の下で
――そして、令和八年、十月。
今年も、金木犀が咲きました。
これで、九十三回目の十月ですわ。
「――麗華ー。さっきから、誰と喋ってんの?」
振り返ると、貞子さんが、金木犀の幹の向こうから、ひょこっと顔を出しておりました。
「読者の皆様と、ですわ」
「またメタな発言してる!! この前も鬼塚さんに言われてたじゃん!」
「あら。聞いていらしたのね」
「声でかいんだもん、鬼塚さん。……てか、何の話?」
「……秘密ですわ」
「えー、ずるい。……あ、そうだ。今日の勝負は?」
わたくしは、少しだけ考えて、それから、金木犀の幹のうろを、日傘の先で示しました。
「――では。どちらが先に、金木犀の花を一つ、あのうろに入れられるか」
「え、余裕。あたし、落ち葉だったら、今は十枚でも二十枚でもいけるもん」
貞子さんは、足元に落ちていた橙色の小さな花を、そっと、指先ですくい上げました。
そして、胸の高さの、拳が入るくらいのうろに、ことんと、落としました。
「――はい。あたしの勝ち」
――――。
わたくしは、うろの中を、そっと、のぞきました。
枯れ葉と、小枝と、ほこりの上に。
小さな橙色の花が、一つ。
九十三回目の十月にして、初めて。
この郵便受けに、届いたものが、ございましたの。
「……ええ。……わたくしの、負けですわ」
「……え。……え? うそ、麗華が負け認めた? 初めてじゃない?」
「西園寺家の決まりですわ。……引き分けではない勝負には、素直に負けを認めるのですの」
「その決まり、今作ったでしょ」
「ええ。今、作りましたの」
わたくしは、日傘を、くるりと回しました。
「……では、約束どおり。今日からは、『サダさん』とお呼びしなければなりませんわね」
「…………あ」
貞子さんは、きょとんとして、それから。
気まずそうに、でも、とてもうれしそうに、笑いました。
「……いいよ、それ。……貞子で。……てか、貞子がいい」
――――。
「……では。これからも、貞子さんと」
「うん。……てか、何この空気。ちょっと、エモいんだけど」
「――ええ。エモいですわね」
「……今の、正しい使い方だよ。麗華」
「存じておりますわ」
金木犀の花が、風に揺れて、うろの上に、はらはらと降りつもりました。
――皆様。
これで、わたくしのお話は、おしまいですわ。
あらためまして、自己紹介をいたしますの。
わたくし、西園寺麗華。
大正生まれの、二十歳。霊歴、九十二年。
好きなものは、金木犀と、白い日傘と、「エモい」という言葉と。
それから――
ライバルが、一人おりますの。
墓場は今日も、成仏いたしませんわ。
――ごきげんよう、皆様。また、金木犀の香る頃に。
(番外編-麗華- 第三話 完)
――番外編-麗華-・完――
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