番外編-麗華- 第二話「傘のない子」(中盤)
☆名前
翌朝。
雨は上がって、金木犀の香りが、いつもより濃く墓地を満たしておりました。
わたくしは、着物の襟を整え、背筋を伸ばして、桜庭家之墓へ向かいました。
二十三回も練習したのです。
抜かりはございませんわ。
その子は、縁側に腰かけて、前髪を指でいじっておりました。
「――ごきげんよう」
その子が、顔を上げました。
そして、わたくしを頭の先から足の先まで、じっくり眺めて。
「――え、何。大正ロマン? かわいー!」
「…………はい?」
練習のどの場合にも、このお返事は、想定しておりませんでした。
「てか、着物、本物じゃん。え、もしかして、その時代の人? やば。生きた歴史じゃん。死んでるけど」
「……その……わたくし、西園寺麗華と申しますの」
「れいか! かわいい名前! いいなー、そういう名前」
その子は、本当に羨ましそうに、そうおっしゃいました。
――その「いいなー」に、小さなとげのようなものが混じっていることに、わたくしは、まだ気づいておりませんでした。
「あなたのお名前は?」
「……あたし?」
その子は、一瞬だけ、目をそらしました。
「……サダ。サダでいいよ」
「サダ、さん?」
わたくしは、首をかしげました。
「……でも、昨日、トメさんが『貞子ちゃん』とお呼びになっていましたわ。……貞子さん、とおっしゃるのでしょう?」
――その子のお顔から、すっと、色が消えました。
「……その名前で、呼ばないで」
「……え?」
「その名前、嫌いなの。……だって、井戸から出てくるやつじゃん」
「……井戸?」
わたくしは、真剣に考えました。
「……井戸が、お好きなのですの?」
「違う!!」
「ですが、井戸からお出になると……」
「だから違うって!! 映画の!! 黒髪の!! ……もういい! とにかく、あたしはサダなの!!」
その子は、立ち上がって、そっぽを向いてしまいました。
――そのとき、わたくしの頭をよぎったのは、川べりのおじさまのお顔でした。
「……はて。……忘れてしもうたのう」
あの、困ったような笑い顔。
「――いいえ」
気がつくと、わたくしは、そう申し上げておりました。
「……は?」
「お名前は、呼ばれるためにあるのですわ。……ですから、わたくしは、貞子さん、とお呼びいたします」
「……はぁ? 何それ。意味わかんない。てか、あんたに関係ないじゃん」
「関係、ございませんわ。でも、お呼びいたします」
「……うざっ!」
その子は、「うざっ」という言葉を残して、墓石の裏へ行ってしまいました。
意味は、わかりませんでした。でも、褒め言葉でないことだけは、伝わりましたわ。
――二十三回の練習は、最初の一言で、すべて役に立たなくなりましたの。
☆背中合わせの夜
その夜、また、雨が降りました。
金木犀の下に立っていると、雨音に混じって、かすかな声が聞こえてまいりました。
桜庭家之墓のほうから。
「……ママ……」
縁側の隅で、膝を抱えて、あの子が泣いておりました。
昼間の、あの笑い声が嘘のように。
声を殺して、小さく、小さく。
「……ごめん……ママ……あんなこと、言うつもり……なかった……」
源蔵さんが、墓の中から飛び出しかけて、トメさんに袖を引かれるのが見えました。
「……あなたが行ったら、あの子、泣けなくなるでしょう」
トメさんは、そうおっしゃって、源蔵さんを墓の中へ連れ戻してしまわれました。
――では、わたくしは。
わたくしは、何ものでもありません。
家族でも、お友達でも。今朝、「うざっ」と言われたばかりの、よその家の娘ですわ。
それでも、足が、勝手に動いておりました。
☆☆☆
わたくしは、桜庭家之墓の、反対側に回りました。
そして、墓石に背中を預けて、そっと、腰を下ろしました。
墓石一つ分の、背中合わせ。
こちらからは、あの子のお顔は見えません。
あの子からも、わたくしは見えないはずです。
しばらくして。
「……誰。……そこ、誰かいる?」
あの子が、鼻声で、そうおっしゃいました。
「……うるさくて、眠れませんわ」
「……今朝の、大正ロマン?」
「西園寺麗華ですわ」
「……てか、幽霊って、寝るの?」
「……寝ませんわ」
「じゃあ、何しに来たの」
「…………」
練習しておけばよかったと、心から思いましたわ。
雨が、強くなってきました。
霊の体は、雨に濡れません。
それでも、冷たい雨が体を通り抜けていく感じは、九十年経っても、慣れるものではございません。
あの子は、今朝、傘も持たずに、ここへ来たのです。
わたくしは、立ち上がって、墓石の上から身を乗り出しました。
そして、着物の袖を広げて、あの子の頭の上に、そっと差し掛けました。
「……何してんの」
「……傘ですわ」
「……幽霊って、濡れないんじゃないの」
「濡れませんわ」
「……じゃあ、意味ないじゃん」
「……気分ですわ」
あの子は、しばらく黙っておりました。
それから、「……何それ」と、小さく、少しだけ笑って、また、膝に顔を埋めました。
泣き声は、続きました。
でも、もう、声を殺しては、おりませんでした。
☆☆☆
わたくしは、一晩じゅう、袖を差し掛けておりました。
九時。十時。十二時。
鐘楼の鐘の音を、一つずつ数えながら。
不思議と、辛くはありませんでしたの。
――待つのは、得意ですの。
それに、九十年前のあの夜とは、一つだけ、違いました。
今夜は、すぐ後ろに、待つ相手が、ちゃんといるのですもの。
夜が白む頃、雨が上がりました。
「……あんた、ずっといたの?」
泣きはらしたお顔で、あの子が、墓石越しにこちらをのぞきました。
「……通りがかっただけですわ」
「……一晩じゅう?」
「……通りが、長かったのですわ」
「……ふっ」
あの子は、吹き出しました。
それは、昼間の笑い方とは、少しだけ違う笑い方でした。
「……変な人」
「西園寺麗華ですわ」
「それはもう聞いた」
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