番外編-麗華- 第二話「傘のない子」(前半)
☆雨の朝の、続き
「――あらあら。……早かったのねえ」
トメさんは、その子の前に立って、そうおっしゃいました。
いつものにこにこ顔で。でも、金木犀の陰からでもわかるくらい、ひどく悲しそうに。
「……え。……誰。てか、ここ、どこ……?」
女の子の声は、かすれておりました。
「あたし、学校……行かなきゃ……てか、なんで、雨……冷たくない……?」
その子は、自分の肩を抱いて、それから、雨粒が自分の体を通り抜けていくのを、じっと見つめました。
――その瞬間のお顔を、わたくしは、一生忘れないと思います。いえ、もう一生は終わっておりますけれど。
「――さだぁぁぁぁぁ!!」
その静けさを、源蔵さんの大声が、木っ端微塵にいたしました。
「さだ、さだじゃないか!! わしの曾孫娘の!! なんでこんなところにおるんじゃぁぁぁ!!」
「……え、誰……、ひいじいちゃん……? 仏壇の写真の……?」
「そうじゃぁぁぁ!!」
源蔵さんは、おいおいと声を上げて泣いておられました。
あの方が泣くのを、わたくしは、二十二年で初めて拝見いたしました。
鬼塚さんは、鬼塚家之墓の陰から、首だけ出して、黙ってその様子を見ていらした。
「……十六だとよ」
いつの間にか、わたくしの隣に来て、そうおっしゃいました。
「……十六。……なんで、こんなもんには、順番がねえんだろうな」
鬼塚さんは、それだけおっしゃって、どこかへ行ってしまいました。
十九でここへ来た方の、言葉でした。
☆なんて品のない
その日、わたくしは、一日じゅう、金木犀の陰から、その子を眺めておりました。
――いえ、眺めていたのではありませんわ。
観察ですわ。新しいご近所さまの。
髪は、明るい茶色に染めておりました。
前髪を、何度も何度も、指で整えていらっしゃいます。
鏡など、もう映らないというのに。
爪には、桜色の塗り物。
先へいくほど色が濃くなって、小さな光る粒まで、ちりばめられておりました。
スカートは、膝がすっかり見える丈。
お話しになる言葉は、「まじ」「やばい」「うける」
意味は、半分もわかりません。
――なんて、品のない。
そう思いましたの。本当に。
西園寺の屋敷で、あんな模様の爪をして歩いていたら、お母様は卒倒なさったでしょう。
でも。
その子は、笑うのです。
源蔵さんが泣きやまないのを見て、「ひいじいちゃん、泣きすぎじゃん」と。
トメさんに「幽霊のお作法」を教わって、「え、壁すり抜けできないの? 幽霊なのに? うける」と。
自分が死んだその日に、笑っていらっしゃるのです。
――わたくしは、笑えませんでした。
あの雪の朝、わたくしは、涙も出ず、笑いもせず、ただ、背筋を伸ばしていただけでした。
あの子は、笑っている。
それが、強さなのか、それとも、わたくしの背筋と同じものなのか。
そのときのわたくしには、まだ、わかりませんでしたの。
☆☆☆
夕方。
――かっ、観……自ざいっ……!
本堂から、慈念さんのお経が流れてまいりました。
声が裏返って、すぐに噛む、修行中の小僧さんですわ。
「「「……チッ」」」
墓地中の霊が、いっせいに舌打ちをいたしました。
そして、桜庭家之墓の前で。
「……うっ。……なにこれ、なんか、気持ち悪い……胃もたれ……?」
その子が、お腹を押さえて、しゃがみ込んでおりました。
「……てか、幽霊って、胃もたれするの? 胃、あるの?」
――まったくですわ。
わたくしも、金木犀の陰で、同じようにお腹を押さえておりましたので、よくわかります。
☆ごきげんよう、の練習
その夜。
わたくしは、西園寺家之墓の裏で、墓石の上の猫と、向かい合っておりました。
「――ごきげんよう。わたくし、西園寺麗華と申しますの。この墓地には、かれこれ――」
――いけませんわ。年数を申し上げたら、おばあさまだと思われてしまいます。
「――ごきげんよう。こちらの墓地のことでしたら、何なりと、わたくしに――」
――硬すぎますわ。先生ではあるまいし。
「――ごきげんよう。……えっと。……『まじ』、ですわね?」
猫は、そこで初めて、うっすらと片目を開けました。
そして、首をこてんとかしげて、大あくびをいたしました。
「……まあ。ご不満ですの?」
「――お嬢、何やってんだ」
振り返ると、鬼塚さんが、墓石にもたれて、こちらを見ておられました。
「――な、なんでもございませんわ!!」
「いや、猫にごきげんようって……それ、十回以上言ってたぞ」
「数えないでくださいまし!!」
「……あの子に、挨拶しに行くんだろ」
――。
鬼塚さんは、わたくしの返事を待たずに、ぶっきらぼうにおっしゃいました。
「……普通によ、『よろしく』でいいんじゃねえの」
「……西園寺の娘に、『よろしく』は、ございませんわ」
「面倒くせぇな、西園寺。」
鬼塚さんは、頭をかきながら、行ってしまわれました。
猫が、もう一度、あくびをいたしました。
――その夜、わたくしは、結局、二十三回、「ごきげんよう」を練習いたしました。
九十年近く、一日も欠かさず言い続けてきた言葉を、ですわ。
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