番外編-麗華- 第一話「ごきげんよう、を言う相手」(後半)
☆昭和五十三年、リーゼントの来訪者
その方は、秋の夜更けに、やってまいりました。
黒い、裾の長い上着。
背中には、金糸で『夜叉鬼』の刺繍。
そして、頭の上には、わたくしが生まれて初めて目にする、前に突き出した、先の尖った髪型。
十九歳だと、あとで伺いました。
この墓地に、わたくしより若い方が来たのは、初めてのことでした。
――年の近い方。
もしかしたら、お話し相手に。
そんなことを考えて、わたくしは、少しだけ胸をはずませておりましたの。
ところが、その方は。
「――マサの野郎……マサの野郎ぉぉぉ!!」
鬼塚家之墓の前で、拳を地面に叩きつけて、夜じゅう、吼えておられたのです。
西園寺家の皆は、墓の奥で耳を塞いでおりました。
お父様など「なんという時代になったものか……」と、うなっていらっしゃいました。
でも、わたくしには、その声が、怒鳴り声には聞こえませんでした。
待ち人に、来てもらえなかった子の声。
――そう聞こえましたの。
「――ごきげんよう。夜分に、ずいぶんと賑やかですわね」
わたくしが声をおかけすると、その方は、勢いよく振り向きました。
――その、勢いよく振り向いた肘が。
ごっ。
わたくしの左の頬に、きれいに入りました。
「……あ。」
「…………」
わたくしは、しばらく、黙っておりました。
生まれてこのかた、いえ、死んでこのかた。
殿方に頬を打たれたことなど、一度もございません。
西園寺の娘として、こういうときにどうするべきか。
それも、教わっておりませんでした。
ですから、わたくしは、その場で、決めましたの。
「――西園寺家に伝わる護身の術、ご覧に入れますわ!」
もちろん、そのようなものは、西園寺家には伝わっておりません。
たった今、ここで、伝わり始めたのですわ。
日傘など、まだ持っておりませんでしたから。
わたくしは、足元の草履を片方脱いで、なりふり構わず、その方のリーゼントを、すぱん、と叩きました。
「――いってぇな!! 何しやがる、この女学生!!」
「女学生ではございません! 西園寺麗華ですわ!!」
「知らねえよ!!」
――それが、この墓場で初めての、殴り合いでした。
西園寺家の皆は、墓の奥から身を乗り出して、やんやんと言っておりました。
「やれ、麗華!」「右じゃ、右から行け!」
一番大きな声を出していらしたのが、先ほどまでうなっていらしたお父様だったことは、西園寺家の名誉のために、伏せておきますわ。
☆☆☆
夜が白む頃。
わたくしたちは、二人とも、砂利道に大の字になっておりました。
「……なんだよ、その護身術ってのは」
「……たった今、できましたの」
「……だろうな」
その方は、空を見上げたまま、しばらく黙っていらっしゃいました。
それから、ぼそりと。
「……悪かったな。……顔」
「……わたくしは、『ごきげんよう』と申し上げたのです。……お返事は?」
「…………おう」
「ごきげんよう」では、ございませんでした。
でも、それは、わたくしの「ごきげんよう」に返ってきた、初めてのお返事でしたの。
それから四十年あまり、鬼塚さんは、毎朝「おう」と返してくださいます。
ときどき「うるせぇ」ですけれど。
でも、お友達、とは、少し違いました。
あの方の目は、いつも、山門の向こうの誰かを見ていらしたから。
わたくしが、金木犀のうろを見ていたのと、同じように。
待つ者同士は、並んで待つことはできても、向き合うことは、なかなかできないものなのですわ。
☆北の端の音と、お兄様
平成になって数年経った秋。
墓地の北の端に、黒い長髪の若い殿方が、ひとり、やってまいりました。
「――ごきげんよう」
その方は、ちらりとこちらを見て、何もおっしゃらず、背を向けてしまいました。「おう」すら、ありませんでしたわ。
でも、夜になると、北の端から、音が聞こえるのです。
生きている方には聞こえない、弦の音。騒々しくて、速くて、それでいて、最後のところで、いつも宙ぶらりんのまま、ぷつりと途切れてしまう曲。
――なんて騒々しい。
そう思いながら、わたくしは、いつも、最後まで耳を澄ませておりました。
終わらない曲。
届かなかった手紙と、よく似た音がしましたの。
☆☆☆
お兄様がいらしたのは、それから少しあとのことです。
杖をついて、背中を丸めて、真っ白な髪をした、小さなおじいさまでした。
わたくしの知っているお兄様は、二十三歳でしたのに。
屋敷の庭で、わたくしのリボンを取り上げては、笑いながら逃げ回っていた、あのお兄様でしたのに。
「……麗華……か。……お前は、変わらんなあ」
「……お兄様こそ。ずいぶんと、お年を召されて」
「八十七じゃ。……お前の分まで、生きてしもうた」
お兄様は、笑いながら、少しだけ泣いていらっしゃいました。
それから、大事な秘密を打ち明ける子どものようなお顔で、こうおっしゃいました。
「……曾孫が、生まれたんじゃ。女の子じゃ。……美しい月と書いて、美月という」
「……美月、さん」
「その子に、お前の話をしてやりたかったが、間に合わんかった。……だから、息子に頼んでおいた。麗華叔母さんのお墓にも、ちゃんと参れ、とな」
月がきれいですね、の、月。
その字を名に持つ女の子が、山門の向こうに生まれたのだと。
わたくしは、その夜、なぜだか、眠れませんでした。
――霊は、もともと眠らないものですけれど。
☆大工と、お玉じゃくし
そして、平成十二年のころ。
桜庭家之墓に、声の大きなおじいさまがやってまいりました。
元大工だそうで、やってきたその日のうちに、ご自分のお墓の傾きを三か所も指摘なさいました。
砂利道の水はけにも、お寺の屋根の反り具合にも、一つずつ文句を。
そして、翌朝。
「――こらぁぁぁ、鬼塚の小僧ぉぉぉ!! わしのおはぎ、どこやったぁ!!」
「うるせぇジジイ! 供えられて三日も放っとく方が悪いんだろが!」
――スポーン。
その朝、この墓地に、初めて「首を飛ばす」という風習が生まれましたの。
わたくしは、もちろん、お止めに入りました。
「お二人とも、おやめになって――」
ごっ。
左右の頬に、同時に。
「……西園寺家に伝わる護身の術、ご覧に入れますわ!!」
こうして、三つ巴になりましたの。
――皆様がよくご存じの、あの朝の行事ですわ。
ええ、二十年以上、一日も欠かさず続いております。
☆☆☆
それから数年後。
桜庭家之墓に、にこにこ顔の小柄なおばあさまが、やってまいりました。
その朝も、三つ巴は、いつもどおり始まっておりました。
おばあさまは、お玉じゃくしを片手に、すたすたと、その真ん中へ歩いていかれました。
そして。
こつん。こつん。こつん。
「――あらあら。みなさん、朝からお元気ねえ。……朝ごはんにしましょうねえ」
――しん。
源蔵さんも、鬼塚さんも、わたくしも。三人そろって、砂利道に正座しておりました。
七十年あまりこの墓地におりましたけれど、あんなに素早く正座したのは、後にも先にも、あの一度きりですわ。
墓場最強の方の、ご到着でした。
☆れいか、きれいなおなまえ
その少しあとの、春のお彼岸。
西園寺家之墓に、小さな女の子がやってまいりました。おばあさまに手を引かれて。
六つか、七つ。茶色いおかっぱに、赤い靴。花束が、体と同じくらいの大きさでした。
――美月さんだと、すぐにわかりました。
お兄様に、笑った口元が、そっくりでしたから。
女の子は、墓石の横の墓誌を、じっと見上げておりました。
たくさんの名前が並んだ石の中で、一つだけ、ひらがなで読めそうな字を見つけたようでした。
「……れい……か。……おばあちゃん、れいかって、だれ?」
「美月の、ひいおじいちゃんの、妹さんよ。……二十歳で亡くなったの」
「ふーん……」
女の子は、小さな指を伸ばして、刻まれた『麗華』の二文字を、ゆっくり、なぞりました。
そして、こう言ったのです。
「――れいか。きれいなおなまえ」
――――。
生きている方のお声で、わたくしの名前が呼ばれたのは、いったい、何十年ぶりでしたでしょう。
「ご先祖様」ではなく。「西園寺家」でもなく。
「れいか」と。
「…………っ」
――ほわ。
「――おい、お嬢! 足、光ってんぞ!!」
鬼塚さんの声で、我に返りました。
足元が、ほんのりと光っておりました。
七十年あまりで、初めてのことでした。
「怒らせろ! 怒りは重りじゃ!!」
源蔵さんが叫び、鬼塚さんが、しばらく考えてから、こうおっしゃいました。
「……お嬢の着物、ちょっとカビくさいよな」
「――なんですって?」
光は、ぶつんと消えました。
あとで入念に、護身の術をご覧に入れましたわ。
☆☆☆
帰り際、女の子は、おばあさまに尋ねておりました。
「れいかさんは、なにがすきだったの?」
「さあ……。お洒落な人で、日傘を差して歩くのが好きだったって、聞いたけどねえ」
「ひがさ。……ふーん」
女の子は、何度も振り返りながら、山門の向こうへ帰っていきました。
――その「ふーん」が、二十年近くも経ってから、白い日傘になって届くことを、このときのわたくしは、まだ知りません。
☆八十九回目の十月
そして、令和四年。
八十九回目の十月でした。
金木犀が咲き、わたくしは、いつものように、うろをのぞきました。
枯れ葉と、小枝と、ほこりだけ。枝の上には、あの猫。
いつもどおりですわ。
ただ、その年は、夕方から、雨が降り始めました。
細くて、冷たくて、やむ気配のない雨。
――十五夜の雨と、よく似た雨でした。
なぜでしょう。その夜は、どうしても、金木犀の下を離れる気になれませんでしたの。
九時。
十時。
鐘楼の鐘が十二時を打っても、わたくしは、そこに立っておりました。
誰を待っていたのか、自分でも、わかりません。
あの方ではないことだけは、わかっておりましたけれど。
☆☆☆
夜が、白み始めた頃。
雨の向こうで、トメさんが、小走りに砂利道を急いでいかれるのが見えました。
あのトメさんが、急いでいらっしゃる。
それだけで、何かが起きたのだと、わかりました。
桜庭家之墓の前に、誰かが立っておりました。
女の子でした。
制服姿。明るく染めた髪が、雨に濡れて、頰に張りついております。
傘は、持っておりませんでした。
その子は、自分の手を、不思議そうに見下ろしておりました。
指の先に、桜色の爪が、小さく光っておりました。
――傘を、お持ちでないのですわね。
わたくしは、金木犀の陰から、その子を、ただ、見つめておりました。
九十年前のあの朝、屋敷へ帰っていったわたくしも、きっと、あんなお顔をしていたのでしょう。
それが、わたくしと、あの子の――
いえ。
わたくしと、貞子さんの、始まりでしたの。
墓場は今日も、成仏いたしませんわ。
――その朝から、わたくしの「ごきげんよう」に、ようやく、行き先ができましたの。
(番外編-麗華- 第一話 完)
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