番外編-伽椰子- 第二話「三回忌は、連絡帳と一緒に。」(後半)
⭐︎雨の試験日
二月。第一志望の入試の朝。
――雨だった。
カーテンを開けて、それを見た瞬間、喉の奥が、きゅっと閉まった。
試験会場の大学に行くには、あの駅から、電車に乗らなきゃいけない。
あの朝、サダを待っていた、あの駅から。
私は、紺色の傘を差して、水色の折りたたみ傘を鞄に入れて、家を出た。
⭐︎⭐︎⭐︎
駅に着いたのは、九時だった。
――九時。
改札の前。屋根の下。雨の音。
二年五か月前の、あの場所だった。
足が、動かなくなった。
「………………」
――大丈夫。大丈夫。今日は、待ち合わせじゃない。試験だ。電車に乗ればいいだけだ。
心の中では、ちゃんと、そう言えた。
でも、足は、動かなかった。
そのときだった。
改札の端っこで、誰かが、泣いていた。
ポニーテールの、制服の女の子だった。
受験票を入れたクリアファイルを抱えて、びしょ濡れで、立ち尽くしている。
――傘を、持っていない。
「………………」
私の足が、動いた。
さっきまで、まったく動かなかったのに。
「…………あ、あの…………」
女の子が、振り向いた。それから、前髪で顔の見えない、傘を二本持った人間を見て、びくっと肩を震わせた。
――それは、そうだと思う。
「………………傘………………使って………………」
私は、鞄から、水色の折りたたみ傘を取り出して、差し出した。
――二年五か月。
この傘が、開かれるのは、初めてだった。
「……え。……いいんですか……?」
「………………二本………………あるから………………」
女の子は、しばらく、水色の傘と私を、交互に見ていた。
それから、受験票のファイルを、そっと私に見せた。
――同じ大学だった。
「……あの、絶対、返します。試験が終わったら、ここで。この改札の前で、待ってますから」
――――。
ここで。
この改札の前で。待ってます。
「……………………ア゛」
「ひっ!?」
――それは、本当に、ごめんなさい。
⭐︎⭐︎⭐︎
試験は、不思議と落ち着いていた。
数学は、やっぱり、全部解けた。
それ以外も、去年よりは、ずっと、解けた。問題文の字が、ちゃんと、頭の中に入ってきた。
――たぶん。
試験が終わったら、あの改札の前に、誰かが待っているからだと思う。
⭐︎⭐︎⭐︎
夕方。
駅に戻ると、雨は、まだ降っていた。
改札の前に、水色の傘が、一本、開いていた。
「――あ! いた! 待ってました!!」
ポニーテールの女の子が、傘ごと、ぶんぶんと手を振っていた。
「……………………」
私は、改札の手前で、立ち止まった。
――待ち合わせの場所に。
誰かが、ちゃんと、来てくれていた。
二年五か月前、誰も来なかった、この改札の前に。
「……………………」
「……え、あの、泣いてます? 大丈夫ですか? あ、もしかして、試験、だめだったんですか?」
「………………ちが………………う………………」
――ちがう。
待っていてくれて、ありがとう。
その一言が、どうしても、口から出てこなかった。
代わりに、喉の奥から、ずっと、あの音が鳴っていた。
女の子は、最初は少し怖がって、それから、なぜか、一緒に泣いてくれた。
「……よくわかんないけど、よかったですね!!」
――うん。
よかった。
――その日、私は、初めて知った。
二本目の傘は、「もしも」のためだけのものじゃない。
誰かに、貸すためにも、あるんだ。
そして、貸した傘は、ちゃんと、戻ってくる。
待ち合わせの場所に。
⭐︎十九のロウソク
三月三日。
サダの、誕生日。
私は、一通の封筒と、小さないちごのショートケーキを抱えて、山門の敷居をまたいだ。
――三回目の、敷居。
もう、足は止まらなかった。
やっぱり、寒かった。
やっぱり、いっぱいいる気がした。
でも、その「いっぱい」が、今日は、なんだか、そわそわしている気がした。
――たぶん、気のせいだ。
⭐︎⭐︎⭐︎
桜庭家之墓の前。
私は、ショートケーキに、ロウソクを二本、立てた。
『1』と、『9』。
――十九。
サダは、十六のまま。私は、今日、十九のロウソクを立てている。
そのことが、去年よりは、少しだけ、痛くなかった。
ライターの火は、三月の風で、一度消えた。
二度目につけたとき、ふっと、風が止んだ。
――去年も、そうだった。
「………………ありがとうございます………………」
私は、誰もいない、風上のほうへ、頭を下げた。
それから、封筒の中から、一枚の紙を取り出して、墓石に向けて、広げた。
『合格通知書 文学部』
「…………サダ…………」
――心の中では、一年分の報告を、全部用意してきた。
自習室の主になったこと。
数学の先生に、もう教えることがないと言われたこと。
図書館で、一冊の本に出会ったこと。
雨の駅で、水色の傘を貸したこと。
その傘が、ちゃんと、戻ってきたこと。
でも、口から出たのは、やっぱり、これだけだった。
「………………受かった………………」
その瞬間。
墓前の線香の煙が、ぶわっと、大きく揺れて、私の前髪を、下から、思いっきり吹き上げた。
「――っ!!」
前髪が、全部、赤い星のヘアピンごと、頭の上に跳ね上がった。
――それは、煙というより、ほとんど、風だった。
まるで、何十人もの誰かが、いっせいに、ばんざいをしたみたいな。
「……………………ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
私は、前髪を押さえながら、泣きながら、笑った。
――サダ。
それ、絶対、サダだよね。
⭐︎⭐︎⭐︎
「…………民俗学、やる…………」
私は、合格通知書を封筒に戻しながら、墓石に向かって言った。
「…………名前のこと…………ちゃんと、勉強する…………サダの名前が、ここに刻まれてる理由も…………」
――それから。
私の名前のことも。
それは、口には出さなかった。
お母さんから聞いた、あの意味のことも。まだ、サダには言わない。
――ちゃんと、好きになれたら。
そのときに、ここで、言う。
⭐︎⭐︎⭐︎
山門を出るとき。
私は、一度だけ、振り返った。
空は、晴れていた。雨の予報は、どこにもなかった。
それでも、私の手には、紺色の傘。鞄の中には、水色の折りたたみ傘。
――たぶん、これからも、ずっと。
もしものために。それから、誰かに貸すために。
「………………またね………………」
山門の向こうで、線香の煙が、ゆらゆらと、ちぎれそうなくらい、揺れていた。
――手を振っているみたいに。
私は、前髪の奥で、小さく、手を振り返した。
――私、月島伽椰子。
十九歳。この春から、大学生。
傘を、二本持っている。
それから、あの寺に、親友がいる。
墓場は今日も、たぶん、賑やか。
――私には、それが、ちょっとだけ、わかる。
(番外編-伽椰子- 第二話 完)
――番外編-伽椰子-・完――
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