「金木犀の下で、お待ちしておりました。」(後半)
☆婚約者の名前
その日の西園寺家は、朝から大騒ぎだった。
「紋付きは! わしの紋付きはどこじゃ!」
「曾孫の婚約者とやら、どんな骨のある男か見定めてくれるわ!」
西園寺家のご先祖様たち――明治生まれの高祖父さまやら、麗華のお兄さんやら――が、墓の中で口々に騒いでいる。墓地いちばんの豪邸は、家族も多い。
麗華は、その騒ぎから少し離れて、墓石の横に正座していた。
「……美月さん、お嫁に行かれるのですのね」
美月さんは、麗華に白い日傘を供えてくれた曾孫だ。正確には麗華のお兄さんの曾孫だけど、麗華は「わたくしの曾孫」と呼んで譲らない。
「……麗華、大丈夫?」
「ええ。美月さんの幸せなお顔を拝見できるのですもの。……嬉しいですわ」
そう言って笑う麗華の手は、日傘の柄を、いつもより強く握っていた。
昼前。砂利道に、二人分の足音。
「大伯母様、来たよー!」
明るい声と一緒に、茶色いボブの女の人が手を振りながらやってきた。
美月さんだ。その後ろを、背の高い、眼鏡の男の人が、花束を抱えてついてくる。
「来ましたわ。……おや、なかなか実直そうな殿方ですこと」
麗華が、少しだけいつもの調子でつぶやく。
美月さんは墓石を拭き、花を生け、線香を立てて、手を合わせた。
「麗華大伯母様。あの日傘、気に入ってくれた? ……今日は、報告があって来ました。私、この人と結婚します」
美月さんに促されて、眼鏡の男の人が、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして。――高村湊と申します」
――時間が、止まった。
麗華の手から、日傘が滑り落ちた。
「…………高、村……?」
☆返ってきた本
「実は、今日はもうひとつ、用事があって来ました」
湊さんは、鞄から布に包まれたものを取り出した。
ひらくと、古い本が一冊。黒い布の表紙は擦り切れて、送り仮名の多い金文字の題が、かすかに残っている。
「……あの詩集……」
麗華の声が、震えた。
「僕の曾祖父の、蒼一郎という人のものです。
教師をしていて、九十八まで生きました」
湊さんは、言葉を選ぶようにゆっくり話した。
「祖母から預かったんです。曾祖父の遊言だったそうで。
『西園寺という家の麗華さんという方のお墓に、いつか誰かが行くことがあれば、この本をお返ししてほしい』って。
……美月との結婚を報告したら、祖母、腰を抜かしてました」
「私たち、図書館で同じ本に手を伸ばして知り合ったんですよ。……なんか、できすぎてるでしょう」
美月さんが、照れたように笑った。
あたしは、麗華の手をそっと握った。冷たくて、震えていた。
湊さんが、詩集を開く。
頁の間から、色の褪せた押し花が、こぼれるように顔を出した。
かすみ草。おしろい花。金木犀。余白には、二種類の字。ひどく下手な字と、精一杯きれいな字が、交互に。
「………………」
麗華は、何も言わなかった。言えなかったんだと思う。
最後の頁。裏表紙の内側に、少しだけ震えた、老人の字があった。
青いインク。相変わらず、下手だった。
湊さんが、それを声に出して読んだ。
「――『麗華さんへ。
あの十五夜、私は駅前の金木犀の下で、朝までお待ちしていました。
場所を変えるという手紙は、読んでいただけなかったのでしょうか。
それとも、来ないことが、あなたの答えだったのでしょうか。
それを確かめる勇気もないまま、私は南に発ちました。
翌春、あなたが亡くなられたと、風の便りに聞きました。
私はその後、妻を娶り、子も孫もでき、満ち足りた生涯を送りました。
それでも、毎年金木犀が香ると、あの雨の夜を思い出します。
もしいつか、この本があなたの元へ返ることがあれば。
私は、あなたを好きでした。
――今でも、月がきれいです。 蒼一郎』」
湊さんの声が、最後の一行で少しだけ揺れた。
しん、と墓地が静まり返った。西園寺家のご先祖様たちも、いつの間にか寄ってきていた源蔵じいちゃんも鬼塚さんも、誰も何も言わなかった。
「……場所を……変える……?」
麗華の唇から、かすれた声がこぼれた。
「そんな手紙、わたくしは……一度も……」
――じゃあ、その手紙は、どこに行ったの。
あたしがそう思った、そのときだった。
☆犯人は、猫
ガサガサッ、と、東の角で音がした。
振り向くと、金木犀の老木のうろから、黒と茶色の尻尾がぴょこんと飛び出していた。
おはぎだった。
うろの中に顔と前足を突っ込んで、しきりに何かをかき出している。
枯れ葉。布切れ。小枝。うろの奥の、もっと奥の、普通なら手が届かないところから。
そして、おはぎは、何かをくわえて、すたっと地面に降りた。
とことこと西園寺家之墓の前まで歩いてきて、美月さんの足元に、ぽとりとそれを落とす。
黄ばんだ、小さく折りたたまれた、紙きれ。
おはぎはそれから、心の底からどうでもよさそうな顔で大あくびをして、墓石の上で丸くなった。
「……えっ、なにこれ。手紙?」
美月さんが拾い上げて、そっと開く。湊さんがのぞき込んで――息を呑んだ。
「……この字」
「え?」
「この下手な字、曾祖父の字だ。間違いない……」
あたしと麗華は、二人の肩越しに、その紙をのぞき込んだ。
『麗華さん。 お屋敷の者に知られたようです。 十五夜は、駅前の金木犀に場所を変えます。 必ず、お待ちしています。 蒼』
………………………………。
「ほっほっ。それじゃったかい」
いつの間にか、ナナシさんが後ろに立っていた。
「九十年前にもな、この寺には猫がおってのう。秋になると、あのうろの奥に巣を作っとった。枯れ葉やら紙きれやら、手当たり次第に引き込んでな。……おはぎの、ひいひいひい……ひいばあさんじゃ」
「………………猫……?」
麗華が、影のような声で言った。
「……猫……ですの……?」
「……猫、だね……」
「身分違いでも……お父様の反対でも……わたくしの落ち度でもなく……」
「猫、だね……」
「九十年…………猫の、せいで…………?」
墓石の上のおはぎが、耳を一度だけぴくりと動かした。それだけだった。
――そして。
「……ふっ」
麗華が、小さく吹き出した。
「ふふっ……ふふふっ…………あはは…………」
笑っていた。
日傘を拾うのも忘れて、お腹を抱えて、お嬢様らしくもなく。
大正生まれの淑女が、墓地の真ん中で。
それから、その笑い声が、少しずつ、少しずつ泣き声に変わっていった。
「……わたくし、振られたのでは……なかったのですのね……」
「うん」
「あの方も……同じ雨の夜に……朝まで……」
「うん。待ってたんだよ。二人とも、別々の金木犀の下で」
数キロ。歩いて三十分もかからない距離。
同じ雨に打たれて、同じ匂いの下で、同じ人を待っていた。
麗華は、地面に崩れるようにしゃがみ込んで、泣いた。あたしは麗華の背中を、ずっとさすっていた。
源蔵じいちゃんは鼻をすすっていて、鬼塚さんは空を見上げて「……猫かよ……」とだけつぶやいた。
☆百年分の、おいのり
「……九十年越しに、届いたんだね」
美月さんが、手紙を指でそっとなぞった。
「曾祖父、最後まで気にしてたんだと思う。……来てよかった」
湊さんは、拾った手紙を詩集の最後の頁に挟んで、墓前にそっと置いた。
返事を待つ手紙と、届かなかった手紙が、ようやく一つの本の中に並んだ。
それから二人は、顔を見合わせて、少しだけ笑った。
「……僕たちは、待ち合わせ場所、ちゃんと確認しようね」
「うん。LINEで。既読もつくし」
「…………」
麗華が、泣きはらした顔を上げた。
「……貞子さん。既読、とは?」
「手紙が、ちゃんと読まれたってわかるやつ」
「…………それは……とても、とても、よろしいものですわね」
麗華は、ゆっくりと立ち上がった。
落ちていた日傘を拾い、裾の土を払い、背筋をぴんと伸ばす。
いつもの、西園寺家のお嬢様の顔で。
そして、秋の空を見上げた。
「――蒼一郎さん」
濡れた瞳のまま、麗華は、とびきりの笑顔で言った。
「わたくしのお返事は、九十年前からずっと、『はい』でしたわ。
……月が、きれいですわね」
――返事は、もちろんなかった。
だって、蒼一郎さんは、この墓地にはいない。とっくに、どこか遠いところへ行ってしまった人だから。
麗華の恋は、もう、叶わない。
でも。
ふっと風が吹いて、東の角の金木犀が、ざあっと鳴った。
橙色の小さな花が、雪みたいに舞って、美月さんと湊さんの髪に、肩に、降り注いだ。
「わぁ……」
美月さんが手のひらを広げて、湊さんがその手をそっと握った。
麗華は、二人の前に立って、日傘を高々と掲げた。
「――西園寺麗華が、宣言いたしますわ」
その声は、墓地中に響き渡った。生きてる人には届かない。
でも、ここにいる全員には届いた。
「わたくしの恋は、叶いませんでした。ですからこの子たちの恋は、わたくしが百年分、叶えてさしあげますわ!」
――ほわ。
麗華の足元が、少しだけ光った。
「あっ、麗華、また足!」
「――まだですわ!」
麗華は、だんっ、と地面を踏みしめた。光が、しゅんと引っ込んだ。
「この子たちの結婚式も、赤ちゃんのお宮参りも、七五三も、全部見届けるまでは、成仏などしていられませんわ!」
「……お前もかよ」
鬼塚さんが、後ろで小さく笑った。
美月さんと湊さんは、金木犀の花を髪につけたまま、手をつないで山門を出ていった。
出ていく前に、美月さんが一度だけ振り返って、墓に向かって手を振った。
「また来るね、大伯母様。……次は、結婚式の写真、持ってくるから」
☆西園寺恋愛相談所、開業
翌朝。
「――おはぎさん。少しよろしいかしら」
麗華は、墓石の上で丸くなっているおはぎの正面に正座していた。
日傘を膝の前に置いて、背筋を伸ばして。
「あなたのご先祖様による九十年分の遅配について、西園寺家として正式に責任を取っていただきたいのですけれど」
おはぎは、片目だけ開けて麗華を見た。
そして、大あくびをした。
「…………話のわかるお方ですこと」
観察者は、責任も取らない。
お昼。西園寺家之墓の前に、落ち葉で作った看板が出た。
『西園寺恋愛相談所 どなたでもお気軽に』
「……麗華、これなに?」
「九十年分の経験を、墓場の皆様に還元いたしますの。手紙は必ず手渡しで、が当相談所の基本方針ですわ」
「説得力がすごい」
そこへ、もじもじしながら、最初のお客さんがやってきた。
「……西園寺のお嬢。その……わしの友人の話なんじゃがのう」
源蔵じいちゃんだった。
「……昔、表札で婆さんにしてしまってな。一度も、ちゃんと言葉で言うとらんのじゃ。……今さら、どう言えばええもんかと」
麗華は、にっこりと微笑んで、源蔵じいちゃんの後ろを日傘で示した。
「――それでしたら、ご本人に直接どうぞ」
振り向くと、お玉じゃくしを持ったトメばあちゃんが、いつもの笑顔で立っていた。
「あらあら。なあに、あなた」
「い、いや、婆さん、これは、その……友人の……」
源蔵じいちゃんは、元大工のくせに、木の葉みたいに震えていた。それから、観念したように目をぎゅっと閉じて
――
「…………いつも、味噌汁、うまい……。…………表札、もらってくれて……ありがとう……」
トメばあちゃんは、一瞬だけきょとんとして、それから、少女みたいに頰を染めて笑った。
「……今さら、なあに言ってるんですか。……ばかねえ」
源蔵じいちゃんの足元が、ほわっと光った。鬼塚さんが「増築、傾いてんぞ」と即座につぶやいて、光は消えた。この墓場の成仏対策は、日に日に熟練していく。
それを見ていた麗華が、日傘の影で、そっとつぶやいた。
「……エモいですわね」
あたしは、麗華を見た。
「……麗華。今の、正しい使い方だよ」
「存じておりますわ」
麗華は、金木犀の方を一度だけ見やって、それから、とびきりの笑顔で笑った。
「……昨日、やっとわかりましたの」
秋の風が、金木犀の匂いを墓地中に運んでいく。
墓場は今日も、成仏しない。
そしてちょっとだけ、恋をしている。
(第三話 完)
最後までお読みいただきありがとうございました。
第三話「金木犀の下で、お待ちしておりました。」(後半)はいかがでしたでしょうか。
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