「金木犀の下で、お待ちしておりました。」(中盤)
☆金木犀の下の、ひみつの話
「……麗華」
声をかけると、日傘が小さく跳ねた。
「……貞子さん。夜更かしは、お肌に悪いですわよ」
「もう死んでるから大丈夫。……隣、いい?」
麗華は少し迷ってから、日傘をずらして、あたしの分の場所を空けてくれた。
金木犀の老木は、近くで見るとびっくりするくらい大きかった。
幹は大人二人でも抱えきれないくらい太くて、ちょうど胸の高さに、拳が入るくらいのうろがあいている。
麗華は、そのうろをじっと見つめていた。
「……さっきの、友人の話ってさ」
「…………」
「麗華の話でしょ」
麗華は、しばらく黙っていた。
それから、日傘の柄を指でなぞって、ふふっと小さく笑った。
「……貞子さんには、かないませんわね」
水面に小石を落とすみたいに、麗華は話し始めた。
「この木はね、わたくしの、郵便受けだったのですわ」
――昭和八年。わたくしは、二十歳でした。
西園寺の屋敷には、書生と呼ばれる方が何人か住んでいて、父の学資で帝大に通いながら、屋敷の雑用を手伝っておりました。
高村蒼一郎さんとおっしゃる方は、その中でも一番無口で、一番細くて、そして一番、字が下手な方でした。
初めてお話ししたのは、この寺です。
お墓参りに来た秋の日、風で飛ばされたわたくしのリボンが、この金木犀の枝に引っかかってしまって。
誰も見ていないのをいいことに、わたくしは、袖をたくし上げて木に登ったのです。
リボンに手が届いた瞬間、足が滑りました。
落ちる――と目を閉じたとき、わたくしは、ひょろりとした腕に受け止められていました。
『……お嬢様。木登りは、淑女の嗜みには入っておりませんよ』
蒼一郎さんは、腕をぶるぶる震わせながら、真面目なお顔でそうおっしゃいました。
震えていたのは、わたくしが重かったからではありませんわよ。絶対に。
『……ですが、良い眺めでしたでしょう』
『……ええ。とても』
わたくしは、抱えられたまま、手の中のリボンを握りしめて、そうお返事しました。
顔が、熱くて、熱くて。
「……ちょ、待って麗華。いきなりお姫様抱っこ?」
「……お姫様抱っこ、とは?」
「いや、いい。続けて。……むり、もうすでにだいぶキュンとしてる」
麗華は、ふふっと笑って、うろに指をそっと触れた。
それからわたくしたちは、本の貸し借りをするようになりました。
書生と令嬢が、屋敷の中で話し込むことなど、許されません。
ですから、本ですの。
わたくしが読み終えた詩集を、書斎の棚の決まった場所に戻しておくと、数日後、それが少しだけ前に出ているのです。
開くと、頁の間に、押し花が挟まっていて。
かすみ草。おしろい花。それから、金木犀。
そして、余白に、ひどく下手な字で、一行だけ書き込みがあるのです。
『この一節、お嬢様はお好きでしたか』
わたくしは、その下に、精一杯きれいな字で書き足します。
『はい。ですが、おしろい花は、少しつぶれておりましたわ』
数日後。
『失礼しました。次はもっと長く重しを載せます』
『そうなさい。ところで、この字は何と読むのですの?』
『「月がきれいですね」です』
――その一行を読んだ夜、わたくしは、一睡もできませんでした。
「…………っっっ!!」
あたしは、金木犀の幹に顔を押し付けて身悶えた。
「それって、あの有名なやつじゃん! 『月がきれいですね』って、つまり『あなたが好きです』っていうやつ!!」
「……ご存じでしたのね」
「現代国語でやったもん!! うわーっ、うわーっ、字が下手で読めなかったから聞かれて答えるの、ズルい! そんなのズルいって!!」
「でしょう?」
麗華は、少し得意げに笑った。その顔は、二十歳の女の子の顔だった。
屋敷では人目がありますから、やがて本の間の手紙は、この木のうろに入れるようになりました。
月に一度のお墓参りが、待ち遠しくて、待ち遠しくて。
母に「麗華はお墓参り好きになったのねえ」と感心されたのは、いまだに少し心が痛みますわ。
一度だけ、二人きりで過ごした日があります。
屋敷の裏の川沿いの道で、蒼一郎さんが、学友から借りてきたという自転車の乗り方を教えてくださったのです。
『離さないでくださいましね。絶対に、離さないで』
『はい。後ろを、しっかり持っています』
ふらふらと、ペダルを漕ぐ。川の風が、髪を揺らす。
『蒼一郎さん、まだ持っていてくださいますわね?』
『…………』
『蒼一郎さん?』
振り返ると、あの方は、ずっと後ろの方で、両手を上げて立っていらっしゃいました。
『離さないと、おっしゃいましたのに!』
『離しても、麗華さんは大丈夫でしたから』
――はじめて、お嬢様、ではなく、名前で呼ばれました。
わたくしはそれに気づいてしまって、ハンドルを切り損ねて、川べりの草むらに突っ込みました。
駆け寄ってきた蒼一郎さんは、草まみれのわたくしを見て、生まれてはじめて大声で笑いました。わたくしも、笑いました。帰り道には雨が降ってきて、一本しかない傘に二人で入って――
屋敷に着いたとき、あの方の左肩だけが、びしょ濡れになっていました。
「…………あのさ麗華」
「はい」
「それ、もう少女漫画だよ。しかも最終回のやつ」
「……少女漫画、とは?」
「試験に出るやつ。……ていうか、あたしの足、今ちょっと光ってない?」
「光っておりますわね」
「やばっ。……慈念さんのお経、慈念さんのお経……」
あたしは心の中で慈念さんの裏返った声を思い出して、なんとか着地した。
色んな意味で、あの人のお経はこの墓地の守り神だ。
麗華は、そんなあたしを見て小さく笑って、それから、またうろを見つめた。
――笑顔が、すっと消えた。
☆十五夜
最後の手紙を見つけたのは、九月の終わりでした。
うろの奥に、折りたたまれた便箋が一枚。いつもより、少しだけ厚くて。
『麗華さん。 来月、私は屋敷を出て、南の学校で教師になります。 身分違いは承知の上です。それでも、もし許されるなら、一緒に来ていただけませんか。 十五夜、金木犀の下でお待ちしています。 答えを、聞かせてください。 ――月がきれいですね。 蒼』
……読めました。最後の一行だけは、一生懸命、丁寧に書いてありましたの。
答えなど、決まっておりました。
十五夜の夜、わたくしは小さなトランクを抱えて屋敷を抜け出し、この木の下に来ました。
月を見るはずが、その夜は夕方から雨になりました。
九時。来ません。
十時。来ません。
鐘楼の鐘が十二時を打っても、夜が白んでも、あの方はいらっしゃいませんでした。
――やはり、身分違いだと思い直されたのだろう。
――父に何か言われたのかもしれない。
――それとも、わたくしが、なにか、してしまったのだろうか。
朝になって、びしょ濡れで屋敷に戻ったとき、蒼一郎さんの部屋は、もう空っぽでした。
その冬、わたくしは、ひどい風邪をこじらせました。
サナトリウムの屋根に雪が積もった朝、わたくしの命は、そこでおしまい。
――気がついたら、この墓地におりましたの。
「……それから九十年。毎年この季節になると、つい、このうろをのぞいてしまうのですわ。……入っているはずが、ありませんのにね」
麗華は、日傘をとん、と地面に突いた。
「ですから、さきほどの質問ですの。……貞子さん。わたくし、振られたのでしょうか」
あたしは、何も言えなかった。
「違うよ」って言いたかった。でも、それを言える材料を、あたしは一つも持っていなかった。
だから、麗華の手を握った。麗華の手は、九十年前の雨の夜みたいに、冷たかった。
「…………貞子さんの手は、温かいですわね」
「幽霊なのにね」
「……ええ。幽霊なのに」
金木犀の匂いが、夜の墓地に、しずかに溢れていた。
麗華の曾孫が、婚約者を連れてお墓参りに来るという話を、西園寺家のご先祖様から聞いたのは、その三日後のことだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
麗華のストーリーは自分的にも書いていて筆が速かった感じです。
第三話(後半)もお楽しみください。
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