「金木犀の下で、お待ちしておりました。」(前半)
☆お嬢様は、今日もどこかおかしい
十月になると、この墓地は生きてる頃には気づかなかった匂いでいっぱいになる。
生きてる人にとってはただの「いい匂い」だけど、霊になると匂いはもう少しだけ色を持っていて、東の角にある金木犀の老木からは、橙色の光の粒みたいなものが、ふわふわと墓地中に漂ってくる。
「はー、いい匂い。金木犀って、香水とかハンドクリームの匂いだよね」
「逆じゃ。香水が金木犀の真似をしとるんじゃ」
源蔵じいちゃんが、縁側で茶をすすりながら訂正する。元大工は、季節の木に詳しい。
「さてと……」
あたしは伸びをして、鬼塚家之墓の方を見た。そこではもう、いつもの朝の行事が始まっている。
「こらぁぁ鬼塚の小僧ぉぉ! わしの栗おこわをどこやったぁ!」
「栗だけ抜いといただけだろが!」
「それが一番罪深いんじゃぁぁ!!」
スポーン。
――はい、今日も平和。
ここでいつもなら、白い日傘のお嬢様がどこからともなく現れて、「ごきげんよう、今朝も野蛮ですこと」と言いながら殴り合いに参戦して、両頰を殴られて、西園寺家に伝わる護身術を披露する。そこまでが朝のセットだ。
……来ない。
「あれ?」
見回すと、麗華はいた。西園寺家之墓の石段に、ちょこんと腰かけて、東の角の金木犀をぼんやり眺めている。
日傘は閉じたまま。膝の上に横たえて、ときどき、指先で柄をなぞっている。
「麗華ー、おはよー」
「…………」
「麗華ー?」
「……はっ。ご、ごきげんよう、貞子さん。今朝も……えっと……エモいですこと」
挨拶が、おかしい。
「麗華、大丈夫? あっちで殴り合いやってるよ? 行かないの?」
「……今日は、よろしいですわ。殴り合いは、明日のわたくしにお任せしますわ」
「明日の麗華もたぶんやらなくていいと思うけど……」
この時期の麗華は、毎年ちょっとおかしい。――と、トメばあちゃんは言っていた。
あたしがこの墓地に来て、はじめての十月だ。
その日の麗華は、一日中おかしかった。
昼ごはんに西園寺家のお供えの高級羊羹をもらったときも、「まあ、この羊羹、エモいですわね」
慈念さんのお経で全員がぐったりしたときも、「……今日のお経、エモいですわね……」
鬼塚さんが源蔵じいちゃんに首を飛ばされて、麗華の膝の上に落ちてきたときも、だ。
「……まあ。エモいですわね」
「エモかねえよ!! どこがだよ!!」
膝の上の鬼塚さんの首が吠えた。正論だ。
――やっぱり変だ。いつもの麗華は、「エモい」の使い方を間違えてはいるけど、使うときは得意げな顔をする。今日の麗華は、まるで、他に言葉が見つからないみたいに、その単語を連呼している。
そして気づくと、いつも金木犀の方を見ている。
☆「友人の話ですけれど」
夕方。
「……貞子さん」
桜庭家の縁側でごろごろしていたら、麗華が小さな声で訪ねてきた。日傘を胸の前でぎゅっと握りしめている。
「どしたの?」
「あの……これは、わたくしの、友人の話ですけれど」
――出た。
生きてる頃、この前置きで始まる話の百パーセントが、本人の話だった。あたしの統計では。
「その……友人が、ですね。とある殿方と、お約束をしたのに……その殿方が、いらっしゃらなかったとしますわね」
「うんうん」
「そういう場合、その……友人は、振られた、ということになるのでしょうか……」
えっ。
ちょっと待って。思ったより重い。あたしが身を乗り出しかけた、そのとき。
「――恋愛相談と聞いて!」
縁側の下から、源蔵じいちゃんが、にゅっと顔を出した。
「ひいじいちゃん!? いつからそこに!?」
「この源蔵、曾孫娘とその親友の一大事とあらば、床下でも天井裏でも駆けつけるわい」
「聞き耳立ててただけでしょ」
「で、だな、西園寺のお嬢。そういうときはのう――」
「――待てやジジイ」
墓石の影から、リーゼントがにゅっと現れた。昨日より先端が一ミリ上を向いている(らしい)。
「鬼塚さんまで!?」
「恋の話だろ。それなら俺の出番だ」
「……鬼塚さん、彼女いたことあるの?」
「…………。」
「あっ、ごめん」
「謝んな!! いいか、誰がなんと言おうと、告白ってのはな、バイクの後ろに乗せて、海沿いを流して、夜明けの堤防でこう言うんだ」
鬼塚さんは、誰もいない墓地の空を見つめて、低い声で言った。
「――『俺の後ろ、一生空けとくからよ』」
「…………」
「…………」
「…………どうだ」
「鬼塚さん、それ、実際に言ったことある?」
「…………練習はした」
「だと思った」
「だっはっはっは! 甘いのう小僧!」
源蔵じいちゃんが、ものすごく満足そうに胸を張った。
「告白などというもんはな、言葉でするもんじゃない。形で見せるもんじゃ。わしはな、言葉は一言も言わずに、婆さんの実家の雨漏りを直して、縁側を張り替えて、最後に表札を彫って渡したんじゃ」
「表札?」
「『桜庭』とな」
「…………えっ、嫌じゃない? いきなり自分の名字の表札渡されるの、嫌じゃない?」
「なんじゃとぉ!?」
「だって重いじゃん! 今の時代なら、LINEで『今度ご飯いく?』から徐々に……あ、麗華、LINEっていうのは、手紙をすっごく速くやりとりできるやつでね……」
「手紙……」
麗華が、小さくつぶやいた。
「……手紙が、すぐに届くのですのね。……それは……、とても、よろしいものですわね」
あっ……。
その声が、あんまり寂しそうだったから、あたしたち三人は、ちょっとだけ黙った。
そこへ、お玉じゃくしを持ったトメばあちゃんが、すっと横を通りかかった。足を止めずに、にこにこと、ひと言だけ落としていく。
「――来なかった人にも、来なかったわけがあるものよ。聞いてみないと、わからないけれどねえ」
…………。
全員、沈黙した。源蔵じいちゃんも、鬼塚さんも、あたしも。
墓場最強は、恋愛相談も最強だった。
「……聞いてみないと……」
麗華が、小さく繰り返す。その視線は、また金木犀の方を向いていた。
「……でも、もし……もしもですわよ。その殿方が、実は来てくださるつもりだったのだとしたら……」
麗華の頰が、ぽっと赤くなった。幽霊なのに。
「あの方が、当時のままのお顔で、雨の中を駆けてきて……『お待たせしました、麗華さん』って……ヘタな字の手紙を持って……あっ……あっ……」
――ほわ。
麗華の足元が、光った。
「麗華、足! 足光ってる!!」
「あっ……いけませんわ……思い出しただけで……胸が……きゅうっと……」
ふわぁ、と麗華の体が浮き上がる。
「思い出しキュンで成仏しかける人初めて見た!!」
「怒らせるんじゃ! 怒りは重りじゃ!」
源蔵じいちゃんが叫ぶ。鬼塚さんが麗華の足首をつかむ。
でも、麗華を怒らせる方法なんて、すぐには思いつかない。
だって麗華は、両頰を殴られても「護身術をご覧に入れますわ」で済ませる人なのだ。
――いや、ひとつだけある。
あたしは、大きく息を吸った。
「麗華。あのね。……麗華の『エモい』の使い方、だいたい全部、間違ってる」
「――なんですって?」
麗華の足元の光が、ブツンと消えた。
「わたくしのエモいの、どこが間違っているとおっしゃいますの!? 三百回は使いましたのよ!?」
「三百回間違えてるんだってば! 羊羹はエモくないし、慈念さんのお経もエモくないし、鬼塚さんの首は絶対エモくない!!」
「いいえ、鬼塚さんの首は、なかなかエモいですわ!!」
「エモかねえっつってんだろが!!」
ドサッ。
激怒した麗華は、足首をつかんでいた鬼塚さんの上に、実に優雅に落ちてきた。
いつの間にか、墓石の上にはおはぎがいて、その一部始終を、心の底からどうでもよさそうな顔で眺めていた。
――その夜。
あたしは、金木犀の老木の下に、小さな白い日傘が開いているのを見つけた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
第三話「金木犀の下で、お待ちしておりました。」は、3部構成でお届けします。
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