「特攻服は、成仏しない。」(後半)
☆十月八日
命日の朝、鬼塚さんのリーゼントは五十分かかった。
「……今日のは、三ミリ上を向いてる」
誰にも聞かれていないのに、鬼塚さんはそう言った。
特攻服には、いつもより丁寧にアイロンがかかっていた。
背中の金色の刺繍『夜叉鬼』が、秋の陰しに光っている。
墓場のみんなは、いつもより静かだった。
源蔵じいちゃんは殴りかからない。麗華は勝負を挑まない。
トメばあちゃんは、朝ごはんのおれき味噌汁を、もう一材多く作って、鬼塚家之墓に届けた。
午前。誰も来ない。
正午。誰も来ない。
午後。
山門から入ってくる足音がするたび、鬼塚さんはちらっとだけそっちを見て、すぐにどうでもよさそうに目をそらした。足音は、全部よその家のお墓に向かっていった。
「……鬼塚さん」
「だから言ったろ。来ねえって」
鬼塚さんは墓石に背中を預けて、空を見上げた。
「……来るわけねえんだ。あいつは、俺を捨てていったんだから」
「あいつ?」
鬼塚さんは答えなかった。
でも、伝わってきた。鬼塚さんの胸の奥の、冷たくて硬い塗りのようなもの。
怒りの形をしてるけど、触ってみると、ずっと寂しい温度のもの。
――四十八年。
この人はその間ずっと、毎年この日に、五十分かけてリーゼントを整えてきたんだ。
日が傾き始めた。
墓石の影が長く伸びて、鬼塚家之墓の墓前には、あたしが置いた紅葉が一枚と、小石が一つ。それだけ。
――そのときだった。
コツ、コツ、と、砂利道に杖の音が響いた。
白髪の老人だった。背中が少し曲がっていて、右足を少し引きずっている。
その隣を、四十代くらいの体格のいい男の人が支えるように歩いている。
二人は、墓地の一番奥までやってきて――
鬼塚家之墓の前で、止まった。
鬼塚さんが、ゆっくりと身体を起こした。
老人の顔を、じっと見る。目尻のしわ。落ちくぼんだ頰。
そして、左の眉の端にある、小さな古傷。
「…………マサ?」
その声は、あたしが知っている鬼塚さんのどの声よりも、小さかった。
☆四十八年遅れの話
「……よう、タケ」
老人――マサさんは、墓石に向かって、気まずそうに片手を上げた。
「遅くなっちまったな。……四十八年も」
「……ってめぇ、何しに来やがった」
鬼塚さんの声が、震えていた。
起こした身体の周りに、怒りとも泣きそうともつかないものが渦巻いている。
「裏切り者が今さら何の用だ。俺を捨てて、勝手に逃げやがったくせに……」
もちろん、その声はマサさんには届かない。
マサさんは、隣の男の人からコンビニの袋を受け取ると、中から缶コーヒーを一本取り出した。
茶色とクリーム色の、昔ながらのミルクコーヒー。
プシッと開けて、墓前に置く。
「お前、これしか飲まなかったよな。族の総長がブラック飲めねえの、後輩にバレねえように、いつも俺に買いに行かせてさ」
「…………」
――甘党の起源、判明。
でも、今は笑っていい場面じゃなかった。
マサさんは、杖に体重を預けて、ゆっくり墓前に腰を下ろした。
「あの夜のこと、覚えてるか。俺が『抜ける』っつったら、お前、黙って俺を殴ったよな」
マサさんは、左の眉の古傷を、指でなぞった。
「効いたぜ、あれ。四十八年経っても、雨の日は疼くんだ」
鬼塚さんの拳が、ぶるりと震えた。
「……言いそびれたんだよ、あの時。殴られて、頭きて、俺も怒鳴り返して。……そしたらお前、バイクで行っちまってさ」
マサさんは、隣に立つ男の人の背中を、軽く叩いた。
「こいつな、武志っていうんだ」
鬼塚さんが、息を止めた。
「あの頃、千津子の腹にこいつがいた。族を抜けて、真っ当に働いて、こいつを育てなきゃならなかった。
……あの夜、お前にそれを言いに行ったんだ」
マサさんの声が、少しだけ詰まった。
「そんで、頼むつもりだった。『タケ、俺のガキの名前、お前がつけてくれ』って」
――風が、止まった。
「……言えなかったからさ。勝手にもらった。お前の『武』を」
「……親父」
武志さんが、彼を見下ろした。
「俺の名前、そういうことだったのかよ。じいさんの名前から取ったって……あれ、嘘かよ」
「嘘だ。お前に話したら、こいつのことも話さなきゃならねえ。……俺は、話せなかったんだ」
マサさんは、缶コーヒーの隣に、色褒せた布切れを置いた。黒地に、金の糸で『夜叉鬼』。鬼塚さんの背中の刺繍と、まったく同じもの。
「俺の特攻服から切り取って、四十八年、工場のロッカーに貼ってた。……毎年、今年こそ来ようって思ってたんだ。でもな、ここに来たら、お前がもういないって認めることになるだろ。それに……」
マサさんは、墓石を見上げて、笑った。泣きそうな顔で。
「お前、一回も化けて出てこねえんだもん。許してくれてんのか、まだ怒ってんのか、わかんねえでさ……怖くてよ」
「…………化けて出てんだよ。毎日」
鬼塚さんは、むき出しの声で言った。
「毎日ここで、リーゼント整えて、てめぇを待ってんだよ。……遅えんだよ、バカ野郎……」
その瞬間、あたしには伝わった。
鬼塚さんの胸の奥の、冷たくて硬い塗りが、ピシッと音を立てて割れるのが。
その下にあったのは、怒りじゃなかった。
――殴って、悪かった。
――話を聞いてやればよかった。
――謝りたかった。四十八年間、ずっと。
「……悪かったな、マサ。殴って」
鬼塚さんは、マサさんの前にしゃがみ込んで、その左の眉の古傷に、そっと触れた。
指は、すり抜けた。
「……って、聞こえねえか。……だよな」
そのとき、武志さんが、墓前に片膝をついた。
「……はじめまして、武さん」
武志さんは、不器用に頭を下げた。
「名前、ありがとうございます。おかげさまで、まっすぐ……いや、そこそこまっすぐ育ちました。
息子もいます。高校生で、生意気です。
……親父のこと、もう許してやってくれませんか」
鬼塚さんは、しばらく武志さんの顔を見ていた。
それから、鼻をすすって、決してあたしたちの方を見ないようにしながら、言った。
「……いい顔してんじゃねえか。……いい名前だろ、武志」
☆ほわほわ、ふわふわ
――ごおん、と、夕方の鐘が鳴った。
「如是我聞――」
円海さんのお経が、夕焼けの墓地に広がっていく。
いつもなら、みんなでとろけて、麗華が少し成仏しかけて笑い話になる時間だ。
でも、今日は違った。
「……鬼塚さん、足」
鬼塚さんの足元から、光の粒が立ちのぼっていた。
ほわほわと、ではない。この前の源蔵じいちゃんとは、光の量が全然違う。
まるで、鬼塚さんの足元から小さな朝日が昇っていくみたいな。
「……ああ、これか」
鬼塚さんは、自分の足元を見下ろして、不思議そうに、少しだけ笑った。
そして、その体が、ふわりと浮いた。
「――待って!!」
考えるより先に、足が動いていた。あたしは鬼塚さんの足首にしがみついた。
でも、止まらない。この前よりずっと速い。
「ひいじいちゃん! 麗華! 来て! 鬼塚さんが!」
「貞子さん!」
麗華があたしの足にしがみつく。源蔵じいちゃんが麗華の足に。
それでも、昇る。墓石の高さを越えて、杉の木の高さを越えて、本堂の屋根が足の下に見えてくる。
「怒らせるんじゃ! 怒りは重りじゃ!」
源蔵じいちゃんが叫んだ。
「この小僧がぁ! お前のリーゼントなんぞ、焼きそばパンみたいなもんじゃろうが!」
「……へっ」
鬼塚さんは、空を昇りながら鼻で笑った。
「やきそばパンで結構だよ。今日のは、三ミリ上を向いてんだ」
――怒らない。
もう、この人の中には、怒りがないんだ。
「やだ……やだよ、鬼塚さん。行かないでよ」
涙が、あとからあとから溢れてくる。
「まださ、プリンの話、ちゃんとしてないじゃん。いちごミルクだって、返してもらってないし……ひいじいちゃんとだって、まだ殴り合いの決着ついてないじゃん……!」
「……貞子」
鬼塚さんが、はじめて、あたしの名前を呼んだ。
「いちごミルク、悪かったな。……あと、紅葉。ありがとよ」
――気づいてたんだ。あの落ち葉。
「ジジイもよ。……あんたの家、傾いてねえよ。一番まっすぐだ」
「……やかましいわ、小僧が……」
源蔵じいちゃんの声が、かすれていた。
「西園寺のお嬢も。……お前らといるのもよ、悪かねえ四十八年だったぜ」
彼の足元の光が、もう腕まで包んでいた。足首をつかむあたしの手の感触が、少しずつ、薄くなっていく。
遠く下、墓前では、マサさんが夕焼けを見上げていた。
見えてないはずなのに。まっすぐに、こっちを。
「……タケ?」
鬼塚さんが、手を上げた。あの頃、仲間と別れる時にそうしていたのだろう、二本指を立てて、額から軽く弾くような挨拶。
「――じゃあな、マサ」
円海さんのお経が、一番高いところへ上がっていく。
光が、彼の首元まで届いた。
あたしは、目をぎゅっと閉じた。
☆お経は、重い
――「ゴホッ」
円海さんが、咳き込んだ。
「ゴホッ、ゴホゴホッ…………すまん、慈念。風邪が……続きを……」
「「「「……えっ」」」」
空中で、四人分の声が重なった。
そして、来た。
「は、はいっ! ……かっ、観じざいぼさっ――ぎょ、行じん……はんにゃ……はら、はらみっ……ったぁ――!!」
――ずしっ。
胃が、ないのに、胃が、レンガになった。
鬼塚さんの首元まで届いていた光が、ブツンと切れた。
「……お、おい、待て、これ……」
鬼塚さんの顔が、すっと青くなる。
「……胃もたれ……じゃ」
源蔵じいちゃんが低くつぶやいた。
次の瞬間。
四人連なりの霊は、まるで墓石を落としたような勢いで、真っ逆さまに落ちた。
「「「「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」」」」
本堂の屋根を過ぎ、杉の木を過ぎ、墓石の高さを過ぎて――
ドゴシャアアアアアッ!!!
鬼塚家之墓の真ん前。マサさんと武志さんの、目の前。
鬼塚さんを一番下にして、あたし、麗華、源蔵じいちゃんの順に、霊の山ができた。
落ちた勢いで、線香の灰がふわっと舞い上がり、缶コーヒーがコトンと倒れた。
「うおっ!? な、なんだ今の風……」
武志さんが飛びのく。
マサさんは、倒れた缶コーヒーをじっと見つめていた。
それから、肩を震わせて――大声で笑い出した。
「……っははは! なんだよタケ、怒ってんのかよ。……それとも、始末が悪くて言い出せねえのか?」
……あたりです。
山の一番下から、うめくような声が聞こえた。
「……おい……」
「……はい……」
「……俺の……感動……返せ……」
リーゼントが、完全に潰れていた。五十分の力作が、見る影もない。
「……ごめん、鬼塚さん……ふっ……ふふっ……」
だめだ。泣いてたはずなのに。笑いが止まらない。
「……ごきげん……よう……ふふっ……」
「だっはっはっは! 焼きそばパンが、つぶれアンパンになっとるわい!」
「うるせえジジイ!!」
鬼塚さんは山の下でじたばた暴れて――それから、泣きながら笑った。
顔を落ち葉に押し付けて、肩を震わせて、長いこと、いつまでも。
☆また来年な
慈念さんのお経は、最後まで裏返りっぱなしで終わった。
マサさんは倒れた缶コーヒーを立て直して、『夜叉鬼』の布切れの上に小石を載せた。
あたしの紅葉と、同じやり方で。
「ここの寺の小僧、お経がひでえな。……お前、毎日これ聞いてんのか」
「……聞いてんだよ。毎日な」
鬼塚さんは、潰れたリーゼントのまま、墓石に寄りかかって答えた。
「……じゃあ、しょうがねえな。もうちょい、お前の分まで俺が来てやらなきゃな」
マサさんは杖をついて立ち上がると、墓石のてっぺんを、昔の仲間の肩でも叩くみたいに、ポンと叩いた。
「また来年な、タケ。今度は孫も連れてくる。
……あいつ、お前の写真見せたら『このリーゼントやばい、真似したい』ってよ」
鬼塚さんの肩が、小さく跳ねた。
二人の背中が、夕闇の山門の向こうに消えていく。
鬼塚さんはそれを最後まで見送ってから、ぼそっと言った。
「……来年まで、成仏してらんねえな」
「でしょ」
あたしは、鬼塚さんの隣にしゃがみ込んだ。
「孫にリーゼントのセットの仕方、教えなきゃだしね。見えないけど」
「……うるせえ」
ナナシさんが、無縁仏の影から、ほっほっと笑う声が聞こえた。
「未練というもんはのう、ひとつ消えると、またひとつ生まれるもんじゃ。
……それでええ。決して悪いもんじゃない」
☆そして墓場は、今日も成仏しない
翌朝。
隣の鬼塚家之墓から、ジュウウウ……というアイロンの音が聞こえてくる。
リーゼントは、二十分で終わった。うん、今日は、誰のためでもないリーゼントだ。
「こらぁぁぁぁ鬼塚の小僧ぉぉぉ!! わしのおはぎをどこやったぁ!!」
「知らねえよ。風で転がってったんじゃねえの」
「口の周りにあんこが付いとるわぁ!!」
スポーン。
いつもの音がして、いつもの首が、いつもの秋空を飛んだ。
「ごきげんよう、貞子さん。今朝も野蛮ですこと」
「麗華、おはよー」
あたしと麗華は、並んで墓石に腰かけて、殴り合いを眺めた。
墓石の上では、おはぎが今日もどうでもよさそうに毛づくろいをしている。
「……あのさ麗華。昨日の勝負って、どっちの勝ちなのかな」
「鬼塚さんをより喜ばせた方、ですわね。……それでしたら」
麗華は日傘の影で、ちょっとだけ悔しそうに微笑んだ。
「慈念さんの一人勝ち、ですわね」
――その日の朝。境内を掃除していた慈念さんの竹ぼうきの先に、なぜか一枚だけ、見事な紅葉がぴたりと貼りついて離れなかったという。
慈念さんは不思議そうに首をかしげて、それから、なんとなく墓地に向かって手を合わせた。
そして――
――ごおん。
「かっ、観……自ざいっ……!!」
「「「「……チッ」」」」
墓地中の舌打ちが、秋の朝に響き渡る。
その中に、ひとつだけ、ちょっと温かい舌打ちが混ざっていたことを、あたしは知っている。
墓場は今日も、成仏しない。
(第二話 完)
最後までお読みいただきありがとうございました。
第二話「特攻服は、成仏しない。」はいかがでしたでしょうか。
次の話は、麗華が主役のお話しを予定しておりますのでお楽しみください。
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