番外編-伽椰子- 第二話「三回忌は、連絡帳と一緒に。」(前半)
⭐︎カヤ、ふたたび
三月四日。
サダのお墓参りに行った、次の日。
卒業式を一週間後に控えた教室で、私は、もう一度、立ち上がった。
一年半前と、同じように。
教室中が、しんとした。あの朝と、同じように。
「………………あの…………」
――心の中では、もう全部言えている。
「昨日、サダに会いに行きました。だから、今日から、また『カヤ』って呼んでください。一年半、わがままを言って、ごめんなさい」
口から出たのは、やっぱり、これだけだった。
「………………カヤって、呼んでください…………」
――一秒。
二秒。
「――カヤぁぁぁ!!」
最初に叫んだのは、一年半前、「カヤ、大丈夫?」と聞いてくれた、隣の席の子だった。
その子は、泣きながら、私に抱きついてきた。
それから、あちこちから。
「カヤ」「カヤちゃん」「カヤ、おかえり」
――おかえり。
その言葉を聞いたら、もう、だめだった。
「…………ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛…………」
教室中が、泣きながら、大爆笑した。
――サダ。
カヤは、今日から、また、カヤです。
その夜。
私は、台所で洗い物をしているお母さんの背中に、声をかけた。
「…………お母さん…………」
「なあに」
「…………私の名前…………どういう意味…………?」
――水の音が、止まった。
お母さんは、しばらく、振り向かなかった。
それから、エプロンで手を拭いて、私の前に座って、ゆっくりと話し始めた。
「伽」という字は、誰かのそばにいて、話し相手になる、という意味だと。
寂しい人が、寂しくないように。
「椰子」は、南の島の木。
嵐が来ても、しなって、折れない木。
「……誰かのそばにいて、どんな雨や風の日でも、折れない子になってほしかったの」
お母さんは、泣いていた。
「……ずっと、聞いてくれなかったから。……嫌いなんだろうなって、思ってたの」
――――。
どんな雨や風の日でも。
私は、玄関に立て掛けた、二本の傘のことを思った。
――ずるい。
サダのときと、同じだ。そんないい意味、あったなんて。
でも、その夜、布団の中で、学生証の自分の名前を眺めても、まだ、よくわからなかった。
――好きになれるのかな。
いい意味だとわかっても、小四から嫌いだった名前は、一晩では、好きになれない。
サダにも、このことは、まだ言わないでおこうと思った。
――ちゃんと、好きになれたら。そのときに。
⭐︎自習室の主
四月。
私は、駅の向こうの予備校に通い始めた。
浪人生の朝は、早い。
七時に家を出て、九時から授業。
夜は、自習室が閉まる十時まで。
自習室は、とても静かだった。
シャーペンの音と、ページをめくる音だけ。
静かすぎて、耳鳴りがするくらいに。
――そう。耳鳴りが。
「…………ア゛」
静まり返った自習室に、私の喉の音が、低く、重く、響き渡った。
全員が、いっせいに、持っていたシャーペンを落とした。
――それから一か月。
「第三自習室の一番奥の席には、夜になると『何か』が座っている」。
そういう噂が、予備校じゅうに広まっていた。
――その『何か』は、私だ。
毎日、一番奥の席で、前髪で顔を隠して、傘を二本、横に立て掛けて、十時まで勉強している。
「傘が二本あるのは、もう一人分だからだ」という尾ひれまで、ついていた。
――それは、半分、当たっている。
⭐︎⭐︎⭐︎
「……月島。お前、数学だけは、もう教えることがないな」
初めての模試のあと、数学の講師が、頭をかきながら言った。
「問題は、それ以外だ」
「…………はい…………」
――それ以外とは、数学以外の全部のことだ。
でも、去年とは、少しだけ違った。
英単語のノートに、『サダ』と書いてしまうことは、もうなかった。
代わりに、ときどき、こう書いてあった。
『サダに、報告する』
⭐︎石に刻む名前
七月。
自習室の冷房が壊れた日、私は、駅前の図書館へ逃げ込んだ。
参考書を開く前に、休憩のつもりで、当てもなく書架のあいだを歩いた。
――小四のとき、サダと同盟を結んだのも、図書室の本棚の陰だった。
そんなことを思い出しながら、ふと、一冊の背表紙が、目に入った。
『墓と名前の民俗学』
――墓と、名前。
それは、今の私にとって、世界で一番気になる、二つの言葉だった。
私は、その本を、一日で読み終えてしまった。
昔の人は、二つの名前を持っていたこと。本当の名前は、大事な人にしか呼ばせなかったこと。
亡くなった人には、新しい名前をつけること。
そして、その名前を、石に刻むこと。
――なぜ、石に刻むのか。
その章の最後に、こう書いてあった。
『名前は、呼ばれるためにある。
そして人は、呼ぶ人がいなくなった後も、その名前が呼ばれ続けるように、石に刻んできた。』
――――。
私は、図書館の窓際で、しばらく、動けなかった。
机の端に、水色の傘の柄が、こつんと当たった。
――その日、私は、志望校の欄を、書き直した。
文学部。
民俗学を学べるところ。
石に刻まれた名前のことを、もっと知りたいと思った。
サダの名前が、あの墓石に刻まれている理由を。
それから、いつか、私の名前が、どこかに刻まれる日のことを。
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