番外編-伽椰子- 第一話「傘を、二本」(後半)
⭐︎数学だけ、満点
受験の冬が来た。
勉強は、していた。
していたつもりだった。
机に向かって、参考書を開いて、文字を目で追う。
一ページ読んで、何も頭に入っていないことに気づく。
もう一度、最初から読む。
英単語のノートには、いつの間にか、『サダ』と一つだけ、書いてあったりした。
――数学だけは、大丈夫だった。
数式は、何も思い出させないから。
答えは、いつも一つで、ちゃんとそこにあるから。
――たぶん、それが、安心だったんだと思う。
⭐︎⭐︎⭐︎
結果は、全部、不合格だった。
最後に届いた大学の成績開示を見て、私は、少しだけ笑ってしまった。
数学だけ、満点だった。
それ以外は、何というか、すごかった。
――サダが見たら、絶対、「極端すぎんでしょ」って、言う。
「……伽椰子」
居間で、お母さんが、私の隣に座った。
「……一年、休んでもいいのよ。……うちは、大丈夫だから」
――浪人、という言葉を、お母さんは使わなかった。
「………………ごめんなさい…………」
「謝らないの。……あなたは、よく頑張ったよ」
お母さんは、私の前髪を、そっと、指でよけた。赤い星のヘアピンが、少しだけ傾いていた。
――本当は、わかっていた。
私は、受かりたくなかったんだと思う。
サダがいないまま、私だけが、次の場所へ進むのが、怖かった。
駅の屋根の下に、まだ、一人で立ったままでいたかった。
――その待ち合わせに、もう、誰も来ないとわかっていても。
⭐︎サダの家
二月の終わり。
私は、一年半ぶりに、サダの家の前に立っていた。
小四から、何百回も来た家。玄関の横の、サダが小学生のときに種をまいたパンジーの鉢は、空っぽになっていた。
――なぜ、今日だったのか。
自分でも、よくわからない。
ただ、来週は、三月三日だった。
サダの、誕生日。
生きていれば、十八歳になる日。
私だけが十八になって、私だけが高校を卒業して、私だけが、先へ行く。
その前に、どうしても、一度だけ、会いに行かなきゃいけない気がした。
――インターホンを押す指が、五回、止まった。
六回目で、ようやく、押せた。
⭐︎⭐︎⭐︎
「……伽椰子ちゃん」
ドアを開けたおばさんは、それだけ言って、しばらく、動かなかった。
少し痩せた、と思った。それから、私も、きっとそう思われている、と思った。
居間には、小さな仏壇があった。
写真の中のサダは、中学の修学旅行のときの写真だった。ピンクの星のヘアピンを、前髪につけて、ピースしている。
――その写真を撮ったのは、私だ。
私は、線香をあげて、手を合わせて、それから、おばさんのほうを向いて、畳に額をつけた。
「………………ごめんなさい…………私が…………同盟なんて…………作らなければ…………」
――心の中では、一年半、何千回も言った言葉だった。
口に出したのは、初めてだった。
「――謝らないで」
おばさんの声が、震えた。
顔を上げると、おばさんは、泣いていた。
「……謝らないで。……お願いだから。……あなたが謝ったら、私は、……」
おばさんは、そこで、言葉を切った。
何かを言いかけて、そのまま、口を閉じた。
――その続きを、私は、聞けなかった。
⭐︎⭐︎⭐︎
おばさんは、涙を拭って、それから、サダの名前の話をしてくれた。
「貞」という字は、まっすぐで、ぶれないという意味だと。
誰に何を言われても、自分を貫ける子になってほしかったのだと。
――ずるい。
そんないい意味、あったなんて。
「……伽椰子ちゃん。あの子に、会いに行ってあげてくれる?」
おばさんは、メモ用紙に、お寺の地図を描いてくれた。
山門から、砂利道をまっすぐ。大きな西園寺家のお墓を右に見て、その先。
『桜庭家之墓』
その横に、小さく、「ここ」と書いてあった。
――サダの字に、少しだけ似ていた。
⭐︎⭐︎⭐︎
帰り際。
玄関で靴を履いていると、階段の上から、蒼太くんが顔を出した。
中学の制服を着ていた。いつの間にか、ちょっと背が伸びている。
「…………」
「…………」
しばらく、二人とも、黙っていた。
それから、蒼太くんは、そっぽを向いたまま、ぼそっと言った。
「……姉ちゃん、家で、カヤさんの話ばっかしてた」
「………………」
「……うるさいくらい。……それだけ。」
蒼太くんは、それだけ言って、どたどたと階段を上がっていった。
――その後ろ姿が、小学生の頃のサダに、ちょっとだけ似ていた。
帰り道。私は、傘を二本抱えて、一人で、歩きながら泣いた。
喉の奥が、ずっと、「ア゛」と鳴りっぱなしだった。すれ違う人たちが、みんな、道をあけてくれた。
⭐︎前夜
三月二日。
私は、駅前の『パティスリー・アンジュ』の前に、二十分立っていた。
テストが終わるたびに、二人で一個を半分こした、いちごのショートケーキ。
サダが振られた日は、二個買った。サダは、泣きながら、二個とも全部食べた。
「…………、いちごの、ショートケーキ…………一つ…………」
「はい、お一つですね。ロウソクはおつけしますか?」
「…………数字の…………『1』と…………『8』…………」
――『8』を口にしたとき、喉が、少しだけ締まった。
帰りに、花屋さんで、ピンクのラナンキュラスを買った。
サダは、「これ、バラよりかわいくない?」って、何度も言っていた。
⭐︎⭐︎⭐︎
その夜。
私は、自分の部屋で、明日持っていくものを、文机の上に並べた。
ショートケーキ。ラナンキュラス。ライター。おばさんの地図。
それから、高校の学生証。
『月島 伽椰子』
――変えなかった名前。
変えられなかった名前。
これを、サダに見せなきゃいけないと思った。
窓の外は、晴れていた。
明日も、晴れの予報だ。
それでも、私は、紺色の傘と、水色の折りたたみ傘を、玄関に立て掛けた。
――明日、行く。
山門の敷居を、またぐ。
一年半遅れの、待ち合わせに。
――たぶん、そこには、いっぱいいる。
でも、その中に、サダもいる。
それなら、もう、怖くない。
――少しだけしか。
(番外編-伽椰子- 第一話 完)
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