番外編-伽椰子- 第一話「傘を、二本」(前半)
⭐︎水色の傘
あの朝のことは、二度と思い出したくない。
なのに、一日に何度も、勝手に思い出してしまう。
駅の屋根。改札の前。
既読のつかない画面。遠くのサイレン。
それから、夕方の電話。
お葬式には、行けなかった。
お母さんが、私の分まで行ってくれた。
帰ってきたお母さんは、玄関で、何も言わずに私を抱きしめた。
喪服から、お線香の匂いがした。
――行ったら、本当になってしまう。
そう思ったんだと思う。
自分でも、よくわからない。
⭐︎⭐︎⭐︎
一週間後。
私は、駅前の雑貨屋さんで、折りたたみ傘を一本、買った。
淡い、水色の傘。
サダは、ピンクと水色が好きだった。
ピンクは、売っていなかった。
いつもの紺色の傘と、水色の折りたたみ傘。
その日から、私は、傘を二本持ち歩くようになった。
晴れていても。雨の予報がなくても。
――あの朝、私が傘を二本持っていたら。
駅じゃなくて、サダの家の前で待ち合わせていたら。
「傘、持った?」って、一言、LINEしていたら。
そういう、もう何の意味もない「たら」が、折りたたみ傘の形をして、私の鞄の底に入った。
重かった。
でも、その重さがないと、歩けない気がした。
⭐︎伽椰子って呼んでください
学校には、十日ぶりに行った。
教室の扉を開けた瞬間、たくさんの目が、いっせいに私を見た。
それから、いっせいに、すっと逸らされた。
窓際の、前から三番目の席。
机の上に、小さな花瓶が置いてあった。
白い菊。
――サダは、菊なんて、絶対「地味じゃない?」って言うのに。
そう思ったら、喉の奥から、あの音が漏れそうになって、私は、唇を噛んだ。
「……カヤ、大丈夫……?」
隣の席の子が、小さな声で言った。
――カヤ。
その名前を、サダ以外の人に呼ばれるのは、もう慣れていたはずだった。
小四のあの日から、サダが「カヤ」って呼ぶから、いつの間にか、みんなもそう呼ぶようになっていた。
でも、その朝は、どうしても、だめだった。
「…………あの」
私は、立ち上がった。
教室中が、しんとした。
――心の中では、ちゃんと言えるのだ。
「ごめんなさい。これからは、伽椰子って呼んでください。カヤは、サダがくれた名前だから、サダがいないと、使えないんです」
心の中では、一度も噛まずに、何度も言える。
でも、口から出たのは、これだけだった。
「………………伽椰子って、呼んでください…………」
それから、頭を下げた。
誰も、理由を聞かなかった。
たぶん、みんな、わかっていたんだと思う。
その日から、私は、「月島さん」か、「伽椰子ちゃん」になった。
⭐︎⭐︎⭐︎
放課後。
鞄の中に、数学の課題のプリントが、二枚入っていた。
一枚は、私の分。
もう一枚は、いつもの癖で、二人分、もらってきてしまった分。
サダは、数学が大嫌いだった。
「カヤ様、お願い。一生のお願い。今日の分だけ」って、毎週、一生のお願いをしていた。
私は、二枚とも解いた。
二枚目の名前の欄は、だれの名前も書かずに、空けておいた。
――満点だった。たぶん。提出する先が、なかったけど。
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