番外編-慈念- 第二話「お前の節で読め」(後半)
⭐︎午後の煙
法要のあと、俺は、本堂の縁側で、座布団を片付けていた。
縁側からは、墓地がよく見える。
桜庭家之墓の前に、ご家族がそろっていた。
お父さんと、お母さんと、蒼太くん。
それから、快晴なのに傘を持っていた、若い女の人。
墓石には、淡い桜色の振袖が掛けられていた。
――盗み聞きは、しない。
俺は、縁側の奥へ下がって、黙って座布団を重ね続けた。
ただ、お母さんの肩が、何度も震えているのだけは、遠くからでもわかった。
しばらくして、風が吹いた。
桜庭家之墓の前の線香の煙が、ふわりと曲がって、お母さんの頬のあたりを、そっと撫でていった。
お母さんが、顔を上げて、振袖をじっと見つめて、それから、泣きながら、笑った。
――俺は、座布団を抱えたまま、しばらく動けなかった。
⭐︎⭐︎⭐︎
その、少しあとだった。
本堂の中が、急に、寒くなった。
寒い、というより。
――満員電車の中に、いきなり放り込まれたみたいな、気配。
何十人もの誰かが、どどどどっと本堂に駆け込んできて、三つのおりんの周りに、ひしめき合っているような。
「……え、えっ、えっ……?」
俺は、座布団を抱えたまま、壁に背中を付けた。
おりんは、鳴らなかった。
鳴る寸前のような、張り詰めた静けさのまま、ただ、そこにあった。
そして、縁側の外。
桜庭家之墓の線香の煙が。
まっすぐに、昇っていた。
金木犀の枝の高さを越えて。
本堂の屋根の高さを越えて。
これまで一度も見たことのない高さまで。
白く、細く、静かに。
――誰かが、行こうとしている。
それだけは、俺にも、よくわかった。
俺は、座布団を落として、裸足のまま、縁側の端まで駆け寄った。
「…………」
行かないでください、と、口から出かけた。
でも、そのとき、円海さんの声が、頭の中で響いた。
――行くか、残るかはな。
聴いた者が、自分で決めることじゃ。
俺は、口を閉じた。
そして、煙に向かって、そっと、手を合わせた。
「……どうか、その方が、望む道を」
――煙は、しばらく、空の高いところで、じっとしていた。
迷っているようにも、墓地を、上から一つずつ眺めているようにも、見えた。
それから。
ゆっくりと。
ゆっくりと、降りてきた。
ひらり、ひらりと、まるで、振袖の袖を揺らすみたいに。
本堂の屋根を過ぎて。
金木犀の枝を過ぎて。
桜庭家之墓の前に、ふわりと、戻ってきた。
その瞬間、墓地じゅうの煙が、いっせいに、でたらめに踊り出した。
本堂の中の満員電車みたいな気配が、どどどっと、外へ満ちあふれていった。
俺は、縁側の端に、へたりと座り込んだ。
それから、自分でも気づかないうちに、つぶやいていた。
「……おかえりなさい」
⭐︎⭐︎⭐︎
夕方。
桜庭家の皆さんが、砂利道を山門のほうへ帰っていかれた。
俺は、境内の端で、竹ぼうきを持って、その背中を見送っていた。
山門の手前で、お母さんが、ふと、足を止めた。
そして、ゆっくりと振り向いて、桜庭家之墓のほうを、まっすぐに見た。
「――いってきます」
――誰に?
と、思ったけれど。
桜庭家之墓の前の煙が、山門のほうへ、ちぎれそうなくらい、ぶんぶんと揺れていた。
――手を振っているみたいに。
俺は、竹ぼうきを抱えたまま、少しだけ、鼻の奥がツンとして、空を見上げた。
⭐︎月曜日の朝
翌朝。月曜日。
――ごおん。
鐘を撞いて、俺は、本堂で経本を開いた。
「――かっ、観……自ざいっ……!」
――最初の一節だけ、今日も、ちょっとだけ裏返った。
その瞬間、墓地のほうから、ひゅうっと、妙に満足げな風が吹いてきた。
――なぜだろう。裏返って、喜ばれた気がする。
そこから先は、まっすぐ。
そして、お経の最後に。
「……本日は月曜日。……桜庭、貞子さん」
――ぽんっ。
常香炉の煙が、桜庭家のほうへ、今までで一番元気よく、跳ねた。
まるで、「はいっ!!」と、大きな声で返事をしたみたいに。
――もちろん、俺には、何も聞こえない。
でも、いいんだ。
呼んだら、煙が跳ねる。それだけで、十分だ。
『第百六十七号 二〇二六年十月 月曜日。桜庭貞子さんのお名前を呼んだ。煙が、過去最高に跳ねた。――おかえりなさい。』
⭐︎手紙と、小さな箱
その夜、俺は、文机に便箋を広げた。
電話は、また切られる気がしたから。
書いては丸め、書いては丸めて、五枚目で、ようやく、こうなった。
『拝啓 大恩寺隆賢さま
先日は、夜分にお電話を差し上げ、大変失礼いたしました。また、中間審査では、身に余るお言葉をいただき、ありがとうございました。
あの夜、「上手くなると、困る人たちがいる」と申し上げた件ですが。
上手くなっても、この寺からは、誰もいなくなりませんでした。
――いえ。
少しは、困っていらっしゃる方も、いるような気がいたします。
ですが、皆さま、ご自分で決めて、ここにいらっしゃるようです。
ですから私は、私の節で、毎朝、お名前をお呼びしようと思います。
あと二年、精進いたします。
敬具 慈念
追伸 来年の夏、寺の行事で、少しだけギターを弾くことになるかもしれません。――邪道でしょうか。
――追伸は、書くかどうか、一時間迷った。
でも、書いた。常香炉の煙が、なぜか北の端のほうへ、ものすごい勢いで流れていたから。
⭐︎⭐︎⭐︎
二週間後。
本山から、一枚の葉書きが届いた。
達筆な、ただ一行。
『精進せよ。 隆賢』
――それだけかと思って、裏返すと、隅に小さく、もう一行。
『追伸 近所迷惑にならぬ音量で、弾くこと。』
「…………ふっ」
俺は、葉書きを当番表の横に、大事に貼った。
邪道、とは、書いていなかった。
⭐︎⭐︎⭐︎
その夕方。
庫裡の玄関に、小さな段ボール箱が届いた。
通販で頼んだ、一番安い練習用のアンプだった。
「――ほう。アンプか」
いつの間にか、円海さんが、後ろからのぞき込んでいた。
「……真空管か?」
「いえ、一番安いやつです」
「……そうか。……まあ、最初はそれでええ」
円海さんは、少しだけ、つまらなさそうな顔をして、それから、ちょっとだけ、嬉しそうに、廊下の奥へ歩いていった。
元ベーシストの背中だった。
⭐︎⭐︎⭐︎
その夜。
俺は、六畳で、ギターケースを開けた。
赤と黒の、尖った形のエレキ。色あせた骸骨のステッカー。
弦は、この前、張り替えておいた。
シールドを差し込んで、アンプのボリュームを、一番小さくして。――近所迷惑にならぬ音量で。
俺は、弦を弾いた。
ミ、ファ、ソ♯、ラ。
シ、ド、レ。
――ミ。
親父の車の中で、何度も聴いた音。あの夜、押し入れの奥で、勝手に鳴った音。
そして、俺のお経の、音。
窓の外を見ると。
常香炉の煙が、北の端のほうへ、まるでヘドバンでもしているみたいに、ぶんぶんと、大暴れしていた。
「…………ふっ。……あははっ」
俺は、声を出して笑った。
「……北の端の方。今夜も、お元気そうですね」
答えは、もちろん、ない。
でも、煙は、一晩じゅう、止まらなかった。
『第百七十号 二〇二六年十一月 アンプが届いた。弾いた。北の端の煙が、過去最大級に暴れた。――これは、たぶん、喜んでいる。』
観測は、まだ続く。
あと二年。
その先も、たぶん、ずっと。
墓場は今日も、成仏しない。
――俺の、観測によれば。
(番外編-慈念- 第二話 完)
――番外編-慈念-・完――
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